算命学余話 #U89「男女の結婚と同性愛」/バックナンバー
マサイ族の男性に嫁いだある日本人女性の話によれば、村落共同体と牛の放牧が生活基盤であるマサイ族にとって、これらの維持存続が生存目的ともいうべきものになっており、我々が近代的な意味で常識とする生活習慣や個人の自由、婚姻制度等は単なる外国の習慣として認識されこそすれ、取り入れられる気配はない。明治維新の頃の日本が必死になって欧化政策をすすめ自国民の生活習慣まで変えたのとは対照的に、マサイは他文化に合わせるということをせず我が道を行き、現代に至っている。それでも携帯電話は普及しており、放牧に不可欠な草の生え具合について問い合わせるため、遠く離れた親戚との連絡に広く使われている。便利な道具は導入するが、便利とも思えない価値観や習慣は取り入れない。そのため今日も固有の文化が生き続け、その独特の婚姻制度について日本人嫁は驚愕しながら報告している。
一夫多妻ではあるが、放牧に忙しい夫は生殖目的以外で自分の妻に無暗に接触することはなく、夫婦の会話は業務連絡が主体。夫が放牧で長期留守にする間、妻たちは家事と子育てに励み、無神経な男の話し相手をする必要もなく女同士で楽しくやっている。ほぼ毎日が女子会である。夫も女たちの機嫌を取る必要がないから男同士でだべって気楽なものだ。こういう社会には熟年離婚も不倫もなく、夫婦の会話はないのが普通である。
試しに日本人妻が自分の夫に先進国のアダルトビデオを見せて反応を観察したところ、マサイの夫はひどく軽蔑し、「気持ち悪い、獣以下の行為だ」と吐き捨てたという。当地の習慣では夫婦の営みは服を着たまま行い、夫婦が互いの局部を見ることは一生ないという。これがマサイの男女観なのだ。
一方で、マサイの結婚では新郎が自分の親友を新婦でもてなすという習慣があり、場合によってはその親友の子を新婦が産んでしまうということもありうるが、子供の位置づけは正式な婚姻で結ばれた夫婦間にあるとされているため、子供は当然のようにその夫婦の子供として育てられる。遺伝的に誰が父親であるかなどとマサイは考えない。そもそも多妻なので、複数いる母親のうちどの腹から生まれたかということもさして重要でない。大事なのは正式な婚姻に基づく夫婦とその子供という確たる形である。親権も親を知る権利もここでは無用なアイテムなのだ。
こうしたシステムの社会にも争い事はあるでしょうが、我々「先進国」の社会よりずっと少ないように思われます。現代人が抱える煩雑な訴訟問題や権利の主張といった、人生に必要とも思われない様々な厄介事から、彼らは解放されてのびのび暮らしているように見受けられます。ちなみにこの日本人妻は第二夫人として迎えられ、夫の親友への「もてなし」は外国人ということで当然のように免除されたそうです。
先進国の人間は自分達の文化が一番洗練されていると考えがちですが、煩雑化した悩みに苦しむ生活を洗練とは呼び難く、男女関係にしても愚痴や反目が多いのは、もとより男女間では無理のある共同生活や価値観の一致に固執しているからなのかもしれません。
さて今回のテーマはこのマサイの婚姻習慣をヒントに、最近注目されている同性婚についてです。同性婚は現代に生まれた新しい概念ですが、算命学の生まれた数千年前にはもちろん存在しない概念です。しかし算命学は同性愛については論じています。陰陽論が基本の算命学では男女を陰陽に置き換えるため、その偏り具合から同性愛の生じる余地ありと考えているからです。
とはいえ、私の印象では、今日の同性カップルの大々的な自己主張はトレンドにすぎないように思います。欧米が主体のキリスト教圏で同性愛を長年厳しく禁じてきた歴史的反動と、やはり欧米主体の人種差別の反動である過剰な平等主義に乗っかった、一時的なファッションに見えるのです。明治に始まる欧化政策以前の日本には、同性愛を禁じる習慣はなかったし、白人がしてきたような人種差別もなかったし、マサイのような一夫多妻が身分の高い者ほど一般的でした。
同性愛が、数千年の人類史の中で存在は認められながらも常に脇役だったのは、おそらく生殖に繋がらない不毛な性行為が原因であり、そういう意味では今日蔓延している男女の避妊の習慣も同列に扱われるべきものです。子だくさんを幸福とみなす価値基準もまた、五行中立の立場にある算命学は冷ややかに見つめていますが、子供が全く生まれないという事態も陰陽の偏りの結果であるとして、算命学では何らかの不安定原因の存在を認めています。
同性愛を誘発する命式については最後に触れるとして、同性愛を論じる前に、まず異性について考えてみましょう。
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