民主主義の退廃@トクヴィルの予言
トクヴィルの予言
これはフランスの学者のの予言である。1840年頃だ。
今から185年前の予言である。あまりに正確な予言過ぎてゾッとする。
トクヴィルの予言をもっと細かくみていくと
というのがキーワードになる。
普通に考えると民主主義というのは自由な皇道や思想を許して多様性を増すための制度なのであるのだからトクヴィルの主張は一見矛盾して見える。
トクヴィルの言いたいことは何か。
自由な民主主義社会のにおいて、ファッションの流行や車のカラーなど些少な部分に関しては多様性が生まれるが、基本的な価値観や制度など根本的アルゴリズムでは逆に画一化していくということなのである。
これはまさにその通りかもしれない。
世界のどこに旅行しても同じような景色になっているという話を聞いたことがないだろうか。これがつまり世界の画一化なのである。
トクヴィルは表面的な多様性だけが推進されることで、本質的な部分は世界で画一化しつつあるという。
「現代世界ではすべての民族や人々はたとえ互いに模倣し合わずとも似通ったものになっていき、世界中どこに行っても同一の行動様式、施工様式が見られるようになっている」という。
この社会に働く見えない力をトクヴィルは「全く新しい形の専制権力」だと言う。
そしてそれは人々が余りに平等と短期的願望を追求するようになった結果、人々の無意識に推される形で巨大な後見的な権力として世界に生まれるものなのである。
短期的願望
「禁煙をして健康になりたい」というのが長期的願望であるが、それに対する短期的願望は「タバコを吸う」である。
前者は理想で、後者は願望である。
それを大きな視点で書いたのがフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの社会契約論である。
社会契約論では「一般意志」と「全体意志」という言葉が使われている。
大多数の人の長期的願望が一般意志であり、これは社会が「こうありたい」という理想・目標である。
それに対して人々の短期的願望が増幅したものが「全体意志」であり、近視眼的な欲望の大合唱になっているときはこの状態である。
そして通常は短期的願望の方が強力で、長期的願望は駆逐されやすい。
これは歴史が証明している。
ルネッサンスというといい意味だったり、成功のイメージが強いと思う。
しかし、ルネッサンス期末期には「個性化」や「多様化」が進んだことで流行が無くなったそうだ。
そして同時期の芸術家のレオナルド・ダ・ビンチなどは手記で「個性を声高に主張する世相」に対して否定的な見解を見せている。
当時はカトリック社会が商業的な退廃を迎えていて西洋社会全体が金銭的欲望の中で腐っていく末期状態にあった。
そしてこの後、ルターの宗教改革やそれに伴うカトリックの改革も相まって極限まで多様化の進んだ進歩的社会をヨーロッパは自ら捨て去ったのだ。
現代社会は誰しもが過去最高に多様性の進んだ社会であることは共通認識であろう。
しかし、現在の「多様化」は本来の意味のものばかりではなく単なる欲望を意味する短期的願望を無制限に解放しているだけのものも多い。
これはルネッサンス末期の状態と同じと考えていいのではないか。
今の社会(日本)においては「今だけ・金だけ・自分だけ」が蔓延っている。このフレーズはまさに短期的願望の極大化を表していると思う。
短期的願望抑制装置
改めて書くが、トクヴィルは
「余りに自由で平等な社会では、真の意味での社会の多様性は消滅するだろう」
と言った。
その理由として、そういった社会は短期的願望の絶対化を止めるような構造物を作りようがないからだそうだ。
今の社会ではほぼ全員が短期的願望が極大化する方向に集まってしまっていて、それに抵抗する力をどこからも調達できないのだ。
それを避けるために伝統社会はしばしば人為的な構造物を作って長期的願望を成立させようとした。
宗教や階級制度などがそれにあたる。
特にヨーロッパの貴族社会や日本の武家社会は『名誉心』というものを重要な力や構造材として利用した。
日本では士農工商などが階級として知られる。その中で武士は質的に違う人間集団として作られていて、「自分たちは商人と違って短期的な願望を押しのけることのできる種族である」というアイデンティティを付与されることにより人工的に短期的願望に抗う力を身につけた。
階級などを狡猾に使ってその位置を固定し、多少の高低差を設けた方が社会は安定する。
相撲の世界にも番付があるように階級的な高低差を人為的に設けることで上に向かおうという強い力を発生させて、それをもとに制度設計されている。
ところが近代の平等社会ではこの高低差すら許せない。