「馬糞症にまぎれて」#シロクマ文芸部
春と風の取り合わせが花粉症という前時代の病気を思い出させる。しかし現代に花は咲かない。花粉の代わりに空中を舞うのは馬の糞だ。乾燥した馬の糞は細かい粒子となって、鼻の奥の粘膜に貼り付いて身体に取り込まれていく。馬の糞のせいで僕はくしゃみをする。目も痒くなる。馬糞症への憎しみの声を上げることにももう飽きた。人々は諦めとの長い同居生活を強いられている。馬糞はどの季節にも舞い上がっている。
化石燃料の枯渇と電力不足により、車は絶滅動物の一種のような存在となり、変わって馬が人々の移動手段となった。エア・カーとか宇宙船とか瞬間移動装置が存在するはずだった未来は、僕らには訪れてくれなかった。
一口に馬、と言っても昔の競走馬のような美しいサラブレッドが街中を闊歩しているわけではない。足の短い馬、馬の振りをしている豚、馬になりたかった人、などが人を乗せて移動手段となっている。つまり馬糞症と呼ばれながらも、そこには人糞も混ざっている。
馬糞症の症状を抑えるために処方される薬もあてにはならない。くしゃみや鼻水は治まる代わりに、前時代の幻影を見せられることになる。馬が車に、人が猿に、洞窟がビルに見えてしまうことがある。一年ぶりに訪ねたかかりつけの医者は、薬の代価として「絵」を要求してきた。僕は差し出された真っ白い紙にぐちゃぐちゃの線と、申し訳程度の人の顔らしき物を安物の顔料で描いた。医者は喜んでそれを洞窟の壁に飾った。次の患者の診察開始まで。
「シンザンの調子が悪いの」
「悪いものでも拾って食ったんじゃないの」
「それなら私たちだって具合悪くなるはずじゃない」
オグラ、トウカイ、ゴールドシップ、前時代に実在した名馬たちの名前を拝借しても、我が家の駄馬たちの能力が上がるわけではない。そもそもシンザンは馬ですらなく、大型犬の雑種であり、それよりも大型である妻を支えられなくて苦しんでいるだけだ。指摘するのが怖くて言いはしないが。
「馬糞症の薬もらってきたよ」
「あなた向けの薬は私には効かないから」
「そろそろ幼稚園のお迎えの時間じゃないのか」
「あの子のお迎えならシンザンだけで大丈夫よ」
ほら、子どもの体重なら平気なんじゃないか。
そうは言ってもシンザンだけに任すのも心配なのでついていく。尻尾を振って「乗れ」と促されたが、病み上がりの身体のリハビリを兼ねて、シンザンの隣を歩く。ゴールデン・レトリーバーと呼ばれた犬種の血が濃くて、優しい気性である。痩せた私を乗せようとしてくれる。私の二倍ほどの体重がある妻には、本当はもっと大型の馬が必要なのだ。飼う甲斐性がないのがつらい。
幼稚園に着くと、既に帰る準備を終えていた息子がシンザンの背に飛び乗った。
「リハビリですか? 無理はなさらずに」
僕が長い間病に伏せていたことを知っている園長先生から、そんな言葉を受け取る。
「パパ、置いてくよ!」息子を乗せた時のシンザンは活き活きとして、他の大型の馬たちに引けを取らないくらいの勢いで駆けていく。何気ない日常に、馬糞症ではない涙が流れ始める。くしゃみや涙に苦しむ人々が多すぎて、誰も私の嬉し涙には気づかない。
(了)
シロクマ文芸部「春と風」に参加しました。
娘が目が酷く痒いというので、いつものアレルギーの薬より少し強いものを処方してもらいました。例年ならこの時期花粉症に苦しむ私も、3週間の入院生活で花粉を浴びなかったおかげで、今年は全然大丈夫! と楽観視していると、退院3日目にして既に耐えられない目の痒みとなり、例年通りの薬を処方してもらいました。
「馬糞症」は移動手段に馬が多く用いられていた明治時代、開拓途中の北海道で実際にあった病気です。花粉症と似た症状に苦しめられたそうです。
嘘です。