耳鳴り潰し203(人狼ゲーム、悟空の善悪判断基準、作文の宿題)
娘が突然「人狼ゲームやりたい」と言い出す。妻もまじえて四人で簡易人狼ゲームをすることに。私は人狼ゲームが日本に入ってきた頃、ネット上でいくらかプレイしたことがある。印象的なゲームは今でも覚えている。現実では、近所の公園で中学生たちがやっているのを見かけたことがあった。
娘は多少ルールは知っているものの未経験。妻と息子は全く知らない。四人では役職者はつけられないので、村人三人、人狼一人にする。娘が作成した紙にそれぞれ「村人」「人狼」と記してある。息子のためにふりがなつきで。それぞれが紙を引き、自分の役割が何かは言わない。数分間の話し合いの後、「せーの」で怪しいと思う人物を指差す、というルールにする。その投票で最も多く票を集めた者が処刑される。獲得票が同数だった場合、話し合いを延長し、再度投票。
本来のルールであれば、投票後に人狼側による村人への襲撃フェイズが挟まるのだが、少人数なのでそれはなし。一夜明けて四人から三人になった状態で、再び話し合い-投票の流れ。二日目でも人狼を当てられなかった場合、人狼側の勝利となる。
一回戦目。反応から見て息子が人狼なのはバレバレであったが、そこは忖度する。投票結果で娘が吊られる。二日目でも息子は生き残り、人狼勝利。
二回戦目。連続して、どう見ても息子。一日目と似た流れとなり、人狼勝利。
三回戦目。この回では妻が人狼だった。細かい経緯は忘れたが人狼勝利。
四回戦目。再び息子が人狼。忖度なしで初日投票で吊ることに成功。村人勝利。
五回戦目。初日に私は怪しまれて吊られた。外野特権で、残っている三人の紙を見せてもらう。初めて娘が人狼に。初日はうまい具合に村人っぽくやれていた娘だが、二日目にはぼろが出て怪しまれて吊られる。村人勝利。
息子が「スライムやりたい」というので人狼ゲームは終了。そしてスライムで遊んでいる最中も、スライムに埋め込まれていたビーズを取り出して人に見立てて、人狼ゲームをすることに。六個のビーズにそれぞれ名前をつける。一人占い師を入れて、役割持ちのことを簡単に説明した。「ダイソーでも人狼のカードゲーム売ってたよ」と言ったら欲しがっていた。
途中ビーズが一個どこかに行ってしまったので、五人制に。「クレヨンしんちゃん」のキャラをあてがい、しんのすけ、ねねちゃん、風間君、ボーちゃん、おにぎり(まさおくん)、の五人で人狼ゲームをすることに。二回連続しんのすけが人狼で勝利。三回戦目ではしんのすけ、風間君、ねねちゃんの三人が残り、投票のやり直しが三回起こった末、人狼ねねちゃんの勝利。
久しぶりのフルシナリオ遊びに消耗した。
昼は妻と娘が出かけていたので、息子と二人で「ドラゴンボール超 ブロリー」を途中まで観た。先日の、ブロリー初登場の劇場版を観た時とは食いつきが違っていた。息子いわく「リアルなドラゴンボールの方が好き」とのこと。息子が最初に観たのは「ドラゴンボール超」なので、その作画が「リアル」。無印、Zの作画は「昔の」ということらしい。セル画時代のアニメは、それらに触れてこなかった世代にとっては、カクカクした動きと感じるのかもしれない。
私は悟空とフリーザのやりとりを観ながら、悟空の善悪認識について考えていた。かつてサイヤ人を滅ぼし、宇宙で暴れまわっていたフリーザは、当然「悪」である。しかし「ドラゴンボール超」において、「力の大会」の終盤、悟空はフリーザに助けられ、悟空たちのいる第7宇宙が勝利することになる。その恩義に報い、悟空は独断で、一時的に蘇らせていたフリーザを現世に生き返らせた。復活したフリーザは当然のごとく、新生フリーザ軍団を結成し、宇宙で悪事を行っている。
悟空の判断はベジータなど他の人に責められている。実際、多くの星の人たちがフリーザ軍の被害に遭って苦しむことになるわけだ。他にも悟空は、ザマスが暴走した未来の世界を、全王様を呼び寄せて世界ごとぶち壊させたこともある。彼の善悪の判断基準はおかしい、と思っていた。
しかしふと気付いた。彼は判断基準が狂っているのではなく、「目の前の状況に対処している」だけなのではないか。「フリーザは力の大会で自分を助けてくれた。だから復活させる」という判断の根拠に「(自分の両親を含む)サイヤ人を絶滅させた」「宇宙の帝王として君臨して、数々の悪さをしてきた」は含まれていない。新たに地球に攻めてきたら対抗してやっつける。それは地球に悪さすることが許せないからだ(他の星がどうとかはどうでもいいからだ)。
そもそも地球に攻めてきた点ではベジータだって同じである。仲間を殺され、お互い死闘を尽くしているのである。それが今では修行のパートナーとして切磋琢磨し続けている。過去のことは水に流しているというわけではなく、気にもしていないのだ。「同じくらいの強さだから、修行相手にもってこい」という感覚なのだ。
善悪を超えたところにある場当たり的な悟空の感覚は、恨みつらみを引きずって無駄にマイナスな感情に支配されかねない我々凡人の感覚とは違うのだ。
みたいなことを思う。直近で観ているものを観直している間は、こういった思索にふけることができる。
なんかすごく長くなってきた。そういえば息子の日記を書く手伝いもした。前日の漢字祭りについて書いた。
その前に「書くことを決めよう」といって、いくつか候補をあげて、その中から息子に選ばせた。
・金曜日の学校の出来事
・初めてブロリーが出てくるドラゴンボールの映画を観たこと
・漢字のいろいろな読み方を考えたこと
・プチブロックのロボットで遊んだこと
「漢字」と息子が選ぶ。
次に5W1H。「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「なぜ」「どのようにして」というやつだ。作文帳は84文字の漢字練習帳を使用しているので、全てを網羅する必要はない。
「誰と」パパ、ねぇね。
「どこで」家。
「何を」いろいろな漢字の読み方。
「どのようにして」実際に遊んでいた時のノートを持ってきて、使えそうなものを選ぶ。
「いつ」「なぜ」は省略。結果的に「どこで」も省略されていた。
私の簡単なメモ書きを見て、息子が文章を書き始める。詰まったところ、書き間違えているところにはアドバイスするが、「こうした方がいい」「こうすべき」とは言わないようにする。
「ねぇねじゃなくてお姉ちゃんでいい?」と息子自ら言ってきた。書き言葉にした時に直した方がいいこと、の判断を自分で行っていた。
最後に具体例をあげようとしたが「凸」と書いて「ち○こ」と読んだりしたのはさすがにアウトである。息子の考案した名前「泥辺これから五時間目の授業を始めます」なども長すぎるので使えない。ここでコンプライアンス的にアウトなもの、与えられた課題の中で不適切なもの、などの判断基準が培われることになる。
「パパの考えた『唱』と書いて『ナーナーナナーナレディフォマイショウ!』が一番センス良かったです、とか」
「却下」
頑なに息子が「習った漢字以外は使わない」と言い張るのが少し気になった。他の子が読めないから、というのもあるだろう。例として使った「泥辺分分(どろべぷんぷん)」も、結局漢字を使用せずに説明したものだから、よくわからないことになった。
しかしそれはそれで良しとした。作文を嫌いになってしまわないことが肝心だから。
今日の一枚「チャーハンを見つめるレッサーパンダのぬいぐるみ」
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