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物への問い(改稿#1)
人間にとっても、他の生物にとっても、生存=存在可能な環境の温度がある。物質にも、その「名」にふさわしい存在として存在が可能になる温度がある。認識論ではなく、存在論として、熱力学的に、現実の個物=系は全て環境温度に依存して存在可能になる。
熱的に見れば、環境=世界から孤立・独立している現実的な存在は存在しない、熱的には、現実の全ての個物=系は外界に対して閉じていない。素朴な熱力学の視点を導入するだけで存在論は一変する。
われわれの文明は未だに機械論的な観点にとどまった物質的な「個」による存在論を前提にしているが、それが間違いであることは、このような簡単な前提条件の変更によっても導かれる(はずである)。
唐突だが、存在論的には、光よりも熱の方が「一枚上手」なのである。
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しかしそれは驚くにあたらない。
サタンでさえも光の天使に偽装するのだから。 (第2コリントス11章14節)
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言葉の神秘的な・絶大な力を信じることがわたしにとっての信仰のすべてであるとも言える。すべてをその軸に沿って進めればいい。そこで。言葉を敵視し無力化しようとする先生方がわたしの敵であることはたしかだが、そのわたしの敵を愛するにはどうすれば?
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ギリシア人は、問うことができるということのうちに、自分達の生存の高貴さのすべてを見ていた。彼らが問うことができるということ、このことが、彼らにとっては、そうすることができず、また、しようとも欲しない人々に対して、自分達を境界づける基準である。彼らはこういう人々を野蛮人と呼んだのである。
( ハイデッガー『物への問い』)