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捨てることの哲学

私はモノやコトをはじめ、プライドや人間関係に至るまで、自分にとって必要でないものを全て捨てるようになってから、自分が本当にやりたいことができる時間ができるようになった。

捨てる前の自分に想像もできなかったほど、頭の中が整理されて目の前のことに集中できるようになった。この記事を書くような時間が取れているということが何よりも証拠である。

現代はモノやコトに溢れかえってしまい、選択肢の幅が広くなった一方、それを享受する側の我々にとってはあまりにも処理できないほどの量になってしまっている。

情報格差がなくなった現代においては、情報をより多く知っていることにはほとんど意味を成さなくなり、情報を取捨選択する能力が何よりも大切になっている。

この記事では私が実際に捨てたことについていくつか紹介し、それがもたらす効果について述べる。


捨てたモノ・コト

部屋にある必要でないモノ

以前の私の部屋の床には何かしらのモノが散乱しており、部屋に入るたびに気分が滅入ってしまっていた。

具体的には、読まなくなった漫画・雑誌、子どもの頃からある謎の玩具類、免許取得時の書類、、、など挙げればキリがないくらいのカオス感漂う魔界であった。

この状態から今現在において本当に必要なモノは何かを真剣に考えだし結局残ったのは、次のモノだけだ。

  • PC

  • スマホ

  • イヤフォン

  • 充電器

  • 数冊の専門書

  • コピー機(とそのコピー用紙、インク)

  • ホワイトボード(とそのペン、イレーザー)

  • カバン

  • 免許証や保険証などのカード類

  • 家の鍵、自転車の鍵

  • 部屋の電気のリモコン

  • 部屋のエアコンのリモコン

  • メガネ(とそのケース、メガネ拭き)

  • 折り畳み傘

  • 筆箱とボールペン

  • 同じ服を3セット

今の部屋は本当にこれしかない。

もしかすると読者の中にはあまりにも無機質で見窄らしく感じた方もいらっしゃるかもしれない。

確かに、モノの豊かさはかなり減ったように思えるが、その分自分の気持ちに余裕が芽生えて、心の豊かさがかなり向上した。大げさに言っている訳ではない。

本当に必要なモノしか身の回りにないので、無駄なモノが視界に入って憂鬱な気分になるリスクがなく、むしろ綺麗に整理整頓された部屋を眺めるのは幾分か心地の良ささえ感じられてしまう。

モノに視界が奪われたり、また何か探し物をしたりして失われていた時間がなくなり、その空いた時間に新しいことができるようになった。

私はデスク作業をすることが多いので、以前よりも作業に集中できる時間が格段に増えた気がする。

このように、身の回りのモノを捨てることだけ実行しても、無駄な時間が削減できるので、自分のやりたいことをする時間を増やしたい方は最初の一歩として実践してみることを強くおすすめしたい。

モノだけでなく、必要でないコトも捨てる

モノだけ捨てればそれで全て解決するかと言われると全然そんなことはない。むしろ、モノを捨てることによって初めてスタートラインになったようなものだからである。

さらに、有意義な時間を増やすには、コトに関しても捨てることを意識しなければならない。

コトというと、モノよりも抽象度が高めで何を指しているか分かりにくいかもしれないが、端的に言えば、デジタルデータのなどの情報、何かしらのタスクのことである。

デジタルデータ、つまりPCやスマホの中身のことである。よくPCの画面を見るとデスクトップ画面にやたらとファイルが混在しているような人を見る。これは仕事ができない人の特徴なのかもしれないが、基本的にファイルはデスクトップではなく、フォルダ管理が必須である。

この点、私の場合はデスクトップ画面は何もなく綺麗な状態であったので特に問題はなかった。しかし、フォルダ管理の方に少し問題があったのである。

以前のフォルダ管理では、特にラベル付けせずに何も考えずにやっていたため、目的のファイルを探し当てるまでの時間が長かった。

ファイル操作は歯磨きと同じくらい毎日行うことなので、こうした日々の無駄な時間が積み重なることで、最終的には大きな時間を失ってしまうことになる。

そこで、私は徹底的にラベル付けを考えて、フォルダを整理整頓した。ここで、重要なのは、ラベル付けをする際にその種類をできる限り少なくするようにしたということである。

私の例では、例えばプログラミングをする用のフォルダをDeveloperとして、その中に数種類のフォルダを格納するようにした。(下記の図を参照)

Developer
├── App
│   ├── app1
│   ├── app2
│   └── app3
│       ├── AppFile
│       └── icon.png
├── Simulation
│   ├── sim1
│   └── sim2
│       ├── main.py
│       └── config.py
└── Text
    ├── text1
    └── text2
        ├── main.tex
        └── image.png

*余談であるが、Macの場合、Developerという名前のフォルダを作成すると、デフォルトでトンカチマークが付与されてちょっとオシャレな感じが出る。

私の場合、Developer内にはApp、Simulation、Textフォルダに加えて2つのフォルダだけの合計5つのフォルダしか存在しない。開発やTexでの執筆に夢中になり過ぎるとフォルダ管理が疎かになってしまいがちで、乱雑に放置されてしまうのが関の山である。だが、結局、徹底したラベル付け作業を試みることで、私のように大きく分けて5つ程度のフォルダに帰着される。

もっと細かく分けることも可能ではあるが、人間が1日で選択できる数が限られているのだから、ラベル付けする種類はできる限り少ない方が選択するエネルギーを減らし、その余ったエネルギーを他のことに費やす方が賢明であろう。

フォルダ管理に関連して、ブラウザのブックマークに関しても同様に必要最低限度のラベル付けを試みることで生産性が向上する。

ブラウザのブックマーク欄は個性が出やすく、例えば次のような例があるだろう。

  • 名前付きのブックマーク

  • 名前なしの(アイコンのみ)ブックマーク

  • フォルダ形式で管理

以前の私は名前付きでブックマークをしていた。というのも、アイコンのみのブックマークだとクリックできる範囲が狭過ぎて、間違えて他のブックマークを押してしまうしまうリスクがあったからである。

しかし、この方式を取ると、限られたブックマーク欄に名前の分だけの幅を取らせてしまい、多くのブックマークを同時に表示することができないというデメリットがあった。

そこで、私は仕方なくアイコンのみのブックマーク方式に切り替えることにした。切り替えた当初は少し新鮮な感じがして思ったより問題はなかったのだが、次第に使ってくるうちに、今必要でないブックマークまでも漏れなく私の視界に入り続けていることに辛抱ならなかった。

例えば、論文を読んでいるときに、ブックマーク欄にあるX(旧Twitter)やYouTube、Netflix、Spotifyなど数々の誘惑界の強敵どもが私の視界に入り込んできて、その度に私の集中力というゲージが減らされていたのだ。

これはいけないと思い、別の方式を移行することにした。

そこで、先ほどのフォルダ管理法から真似して、ブックマークも同様に数少ないラベル付けによってフォルダ管理することが効果的であることに気づき実践してみた。

実際、私のブラウザのブックマーク欄には、PRO、LAB、DEV、FIN、SNS、ENT、TRA、ENGの8つのフォルダしかない。SNSを除いて、名称はそれぞれProductivity、Laboratory、Development、Finance、Entertainment、Travel、Englishの頭3文字から来ている。なぜ3文字かというと、空港コード(NRTやHND)のように3文字あればそれが何を示しているかというのが認識できるからという理由である。この名称の仕方ひとつとっても、できる限り不要なものを削除したいという私の精神が垣間見れる。

デジタルデータと同じかそれじように重要であるのが、タスクである。

学生・社会人問わず我々は日々様々なタスクに追われて、いつも忙しなく生きている。

この忙しさは源泉はタスクそのものというよりも、自分にとって重要なタスクが何であるかを取捨選択することができていないということにあるのではなかろうか。

いつも「忙しい、忙しい」と言っている人ほど何も進捗が生まれていないということは少なくなく、それは取捨選択を怠っている証拠だと思う。中には、焦るあまりに多くのことを同時にこなそうとして、マルチタスクに陥っている人もいるだろう。

人間はマルチタスクができるようにできておらず、マルチタスクしていると思っている時でも、実は一つ一つのタスクに対する注意が行ったり来たりしているだけで、全く生産性が上がらないどころかかなり下がっている。タスクに集中して進捗を生むには、マルチタスクを避けてシングルタスクにする必要がある。

本当に自分に必要なタスクとは何であるかを自分に問い直してみると良いと思う。大学生であれば講義・演習で出題されたレポート課題やテスト対策であるし、大学院生であれば研究に関することであるし、社会人であれば日々の仕事であるはずである。それ以外のプラスアルファのタスク、例えば資格の勉強などは本当に必要性がない限り、ほとんど役に立たないものになってしまう。

頭の中だけで思考しても絞りきれない場合は一度紙に書き下すことが効果的である。紙に書き下すことで、頭の中の思考が明瞭化されて、次の思考が続きやすくなり結果として、思考が深まるからである。

さらに一つ助言をあげるとすれば、知的労働のための勉強は必要最低限度に抑えるということである。頭を使う仕事や学業であれば、何かと勉強しなければならないことがあると思うが、それが本当に必要になってから勉強すれば十分であり、将来役に立ちそうだなとふんわり思って勉強するようでは寿命が何年あっても足りない。結局、人生というのは有限であり、すべての勉強をやり尽くにはあまり短すぎるし、そもそも人生に影響を与える勉強というのはそこまで多くない。

なので、将来のためのぼんやりとした勉強を一切せずに目の前の勉強だけに焦点を当てることができれば、かなり時間効率が良くなるはずである。ただし、趣味で勉強していることがあればその限りではないということも留意しておく。

モノ・コトを捨てた後は、必要でないプライド・人間関係も捨てる

必要でないモノ・コトを全て捨ててしまえばもう完璧であろうか?いや、もっと人生に根源的に関わってくる捨てるべきものが残っている。それは、必要でないプライドと人間関係である。

どうしても自分を良く見せようとして見栄を張ってしまうような人はすぐにそのプライドを捨てる方がいいと思う。変にプライドが高いと、自分のプライドが傷つかない道しか選ばなくなり、選択肢の幅が狭まってしまうからだ。もっと良い選択肢があったはずが、それを考慮するまでもなく最初から拒絶してしまうことで、あまり良くない選択肢を選ばざるを得なくなってしまうのは実に勿体無いことである。

私は少し(?)完璧主義な部分があり、失敗するのを恐れるあまり事前に十分に熟考してから出ないと行動することができていなかった。確かに何も考えなく行動するもの問題かもしれないが、考え過ぎるあまり何も行動に移せないということの方がよっぽど問題である。以前より、行動してから考えるようにシフトチェンジすることによって、少しずつ行動量が増えているのを実感している。

もちろん、全くプライドがなければそれで良いかというとそうではない。プライドがあることによって、無駄な選択肢を削ぎ落としている場合もあるからだ。要するに、必要以上のプライドを持たずに、まずは何でも行動する気概を持つことが大切だということである。

また、プライドを捨てる以上に重要なのは、必要でない人間関係を捨てることである。

私たちは生きていく中で様々な人と関わっているが、時として自分の時間を奪うマイナスな人間関係もあることだろう。だが、こういう人間関係は長年付き合ってきたものも少なくなく、すぐに切れるものでもないので、多くの人は何となく放置したままにしていることが多い。

少しずつ疎遠になってくればそれで良いかもしれないが、相手側がこちらに好意があるような厄介な場合ではそういう訳にはいかない。そのような場合は、こちら側から距離をとっていくしか方法はない。本当に関わりたくないのであれば、その人とのSNSを全てブロック&削除して、絶縁するしかないだろう。

実際、私も今まで惰性で付き合ってきた人とはSNSを全てブロック&削除して一人残らず絶縁した。このように聞くと、「なんて冷酷な人なんだ」と思われるかもしれない。しかし、誰かと惰性で付き合うほど人生は長くなく、本当に一緒にいたい人にだけ時間を割くというのは、冷酷どころか(真の)温厚というべきではなかろうか?温厚さは冷酷さを持ってしてしか生まれないのである。

絶縁を実行した時は少し躊躇いの心もあったが、事後は思ったよりも清々しい気持ちでいっぱいになった。自分の心を縛り付けていた鎖が解かれたような そんな気持ちだった。

それからという日、無駄な人間関係につき回されることがなくなり、自分の時間を多くとることができている。もっと早くからそうすれば良かったかもしれないが、そんな簡単には絶縁できず、十分に熟考する必要があったので仕方ないだろう。

人間関係の問題がクリアになれば、人生はポジティブな方向に自然と進んでいく。よく言われることだが、「あなたは、あなたの周りの5人の平均」という言葉の通り、自分の周りにいる人によって大きく思考や人生が左右される。あなたの周りの5人は、あなたにとっての理想の5人であるかをよく吟味して、人間関係を取捨選択する必要があるだろう。

終わりに

私の座右の銘として、「何かを得るには何かを犠牲にしなければならない」がある。これは、どんな場合でも適用できる原理原則であり、自分が欲しいと思っているものを得たい、あるいは、理想像に近づきたいと思うのであれば、今あるものの中で何かしらを必ず捨てる必要がある、という意味である。何も捨てずに新しい何かを得られるほど社会は甘くなく、常にこのトレードオフに従わなければならない。コペルニクスが天動説という常識を捨てることによって、地動説を提唱できたように、偉大な発見も、まず最初に捨てることによって成し遂げられたと言えよう。別に偉大なことをするために今あるものを捨てるべきであるという訳では全くなく、自分の理想像に近づきたいのであれば、より不必要なものを捨てなければならないということである。今回紹介した、モノ・コト・プライド・人間関係以外にも捨てるべきものはあるかもしれない。それは読者それぞれの判断に委ねるとし、何でも良いので、最初の一歩として「捨てる」ということを肝に銘じておくと、いざとなった時に役に立つかもしれない。

#創作大賞2024 #エッセイ部門


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