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格闘競技における一般・特殊・個別についての考察 第3回



前回の要旨

 
 前回は格闘競技の一般・特殊・個別の内、個別を試合と見た場合の特殊について考察してみた。
 今回はその特殊の内の一つにあたるボクシングを一般、個別をボクシングの試合とみてボクシングの一般論について考えてみる事にする。

ボクシングの一般的な定義をみてみよう

 
 まず試しにボクシングの一般論を検索してみたが、ウィキペディアの定義が上位に並ぶ結果になった。参考までに以下に提示しておく。

拳にグローブを着用しパンチのみを使い、相手の上半身前面と側面のみを攻撃対象とする格闘スポーツ

Wikipedia

 以上を簡単にまとめるなら、「ボクシングのルールに規定された格闘スポーツ」の一言でまとめられる。
 それに対して格闘競技の一般論から降りてきて、特殊として位置付けられるボクシングとして考えるなら「相対する競技者が、ボクシングのルールに規定された勝敗を競い合う格闘競技」となるだろう。

競技者について検討してみる


 良い機会なのでこの仮説的一般論についてもう一度考えてみる事にする。まず「競技者」は必要かと考えてみたが、これは必要だと思う。
 何故ならばどの試合を観ても二人の競技者はいるし、競技者がいなければボクシングは現象しないので観戦する事もできない。
 それに競技者によって現象は無限に変化するので、「競技者」とはボクシングという現象を担う重要な構造だと考える事ができる。
 つまり「競技者」がいないとボクシングは成り立たないので「競技者」という文言は外せないのではないだろうか?

ボクシングのルールについて検討してみる

 
 では次に「ボクシングのルール」という点について検討してみよう。ウィキペディアの様にグローブを着用する、パンチのみを使う、攻撃対象が限定されている、という事は全てボクシングのルールに規定されているからであり、このルールが無ければ、グローブ着用も攻撃手段も攻撃対象も何もかも自由になってしまう。それはもはやボクシングではないのは明らかであり、ボクシングの構造が崩れてしまったと言えるのではないだろうか?
 以上の事からやはりボクシングのルールもボクシングをボクシングとして成り立たせている重要な構造だと考えられるので、「ボクシングのルールに規定されている」との文言も外せない。

勝敗を競い合う事について検討してみる

 
 そしてもしボクシングが勝敗を競わないものだったとすればどうなるだろうか?それはフィギュアスケートの様に審査になるのだろうか?
 少なくとも、今私たちが観る事のできるボクシングの様にはならないのは間違いない。何のために試合をしているのかすら解らなくなる。やはり「勝敗を競う」という文言も外すわけにはいかない。
 そしてその競い合う勝敗も、ルールに規定された勝敗なので、総合的に考えるとボクシングとは「相対する競技者が、ボクシングのルールに規定された勝敗を競い合う格闘競技」となり、特殊的な格闘競技として、格闘競技の一般論ときれいにつながってくる。
 全体的にみて破綻していないと思えるので、やはりボクシングの一般論は「相対する競技者が、ボクシングのルールに規定された勝敗を競い合う格闘競技」と仮定できるだろう。

本質的に貫かれている構造と言えるだろうか?

 
 ここで新たに気づいた事がある。そもそも格闘競技とは全般的に勝敗を競い合うものであり、それはどの格闘競技も変わらないであろう。この点は全ての格闘競技に貫かれている性質だと思える。
 当然にボクシングにも貫かれている性質なのだが、これは本質的構造と言えるのだろうか?と疑問が湧いてきたが、現時点ではまだ解らないとしか言えないので、疑問は抱きつつも他の格闘競技について考える時にでも再度考えてみる事にする。現時点では明確な像を描けず、解らない。そもそも構造と呼んでも良いものだろうか?とすら思う。

 あるいは、これはスポーツ全般をみた時にしか解らないのかもしれない。何故なら勝敗を競い合うのはどのスポーツも同じように思えてきたからである。
 今の時点で仮説で良いからスポーツ全般をみて、スポーツの仮説的一般論を仮定しておくべきか、反対にボクシングの特殊を括る方向に進むべきか、両方を同時にやるべきか、悩ましいところではあるが、すこし考えてみる事にする。

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