ジョン・ケージと霜降り明星せいやのデタラメ共通性
ジョン・ケージは、何も演奏しない「4:33」で知ってる人も多いと思います。この動画は1959年に作曲され、翌年テレビ番組で演奏された「Water Walk」という作品です。
ストップウォッチを片手にセッティングされた物を鳴らしていく、という構成になっています。
これは、デタラメに音を発しているわけではなく、ちゃんといつどの音を鳴らすか楽譜で示されており、それに従って演奏を行っています。
楽譜を見ると、かなり細かくセッティングの指示され、どの音をいつ鳴らすか5秒単位で指定されているのがわかります。
音は、湯が湧く音やグラスに氷を入れる音など、日常にある音が多く、使われる楽器も本来の使い方で無い方法で音を発しています。
全く推測ですが、一つ一つの音は、いわゆる音楽的という観点ではなく日常にある「良い感じの音」を並べているように思います。シンバルを平行に水に入れたら良い気がするし、笛を吹いたまま水に入れたら良いと思います。圧力弁から沸騰した湯気が一気に出る音、カンパリにソーダを注ぐ音、これも良い気がします。
また、ジョン・ケージは易経(中国の占い)で作曲している事を考えると、音の順番は易経で決めたんじゃないかなと推測します。
ここでこのnoteの主題「無意味論」的に、前回記事の「意図の多寡」「意図意識性」「意味性の強弱」で分解すると、音そのものに意図は「良い感じの音」である以外無く、その意識性も薄いように思います。また、意味性も弱いと思います。
鳴らす順番とタイミングを厳格に示す事で、強烈に意味性を強くして作品として成立させているんじゃないかと思います。ただ、その順番は易経で決定されているなら、ランダムとも言えます。いうなれば出鱈目とも言えます。
バラエティ番組で演奏された「WaterWalk」は、この番組用に作られた曲なのかわかりませんが、もしそうだとしたら、日常にある音を順番に鳴らすことで、日常音を音楽として解放する試みだったのでしょうか。
鬼気迫るジョン・ケージと、笑う観客の対比が、何回観てもドキドキします。また、その笑い声を含め作品として成り立っていると思います。
霜降り明星せいやのネタ
こちらはオールザッツ漫才2017年の霜降り明星のネタです。漫才というより、ギャグを繰り出し続けるせいやを粗品が唖然と見続けるという内容で、後半に行くに従ってギャグが断片化し、コメディの細切れが積み重なり圧倒したままネタのピークを迎えます。
同じサムネイルですが、下がピーク部分です。
なにがなんだかわからないまま、面白いをいっぱい持たされて笑いが飽和する感じがします。
まただんだんギャグが細切れになっていく様は、スネアロールが過剰になり音がスネアと認識できなくなる瞬間のように、ギャグの意味が細かくわからなくなるけど、面白は積み重なる感じがします。
「ギャグの意味性」という大きな考察テーマに手をつけていませんが、ギャグは文脈を知らなくても面白いよう機能できるように、意味性は弱く、音や動きが良い感じであるよう設計されているように思います。
「意味性の連続性」「無意味の連なり」
ジョン・ケージは良い感じの音を出鱈目に並べた。でも実は順番は占いで並べた。目的は日常音を音楽として解放する為。
霜降り明星せいやは良い感じのギャグを出鱈目に積み重ねた。でも実は順番は考え練られ練習している。目的は人を笑わす為。
どちらも音楽、お笑いとして成立していますが、どちらもいわゆる音楽、漫才として考えると、正道とは違うと思います。
ここに共通する、構成要素に意味が弱く、その連なりに脈絡が無いっぽいけどあるという構造は、どこまで意味があって、意味が無いのかそのバランスが似ているように思いました。
あんまり明確に共通性と違いを示せなかったけど、
今回の検証は、デタラメ、無意味を考察する上でとても重要な「意味性の連続性」という概念に気づきました。
意味のある言葉をデタラメに連ねると無意味になる。そのグリッドが広いと意味があるんじゃないかと混乱するし、狭いとデタラメだーと混乱する。そこも今後のテーマです。明日は月曜日なのでまた。