意味の意味。無意味の意味。
完全な意味の疎通は不可能
これまでの記事から、発信者と受信者の接続によって、「意味」が成立するとわかりました。
発信と受信の二者は、2人というわけでなく、同一人物、人と物、1人と多勢など、送信と受信があれば成り立ちます。
意味は意図の集合です。発信者と受信者は完全同一ではないため、意味の中にある意図を全て接続する事は難しいと考えます。
それは例えば、発信者の伝える意思の無い意図、受信者の憶測や過剰評価の意図など、意味が完全成立しない要因はあまりに多く、意味の成立には常に非伝達が内在すると考えていいでしょう。
つまり、完全な意味の成立は不可能と考えます。
同一性の高い自分の思考ですら、思考の連鎖のなかに接続しない意図が内在するはずです。
完全無意味も不可能
ここのnoteで最も重要な結論として、発信と受信の意図が一つも伝達しない完全無意味の成立も、ほぼ不可能と考えて良いでしょう。
それは、意図を込めずに発信することが困難であるのと、受信は何かしらの意図があると考え存在しない意図を誤受信するからです。
つまり、意味とは完全に通じることも、完全に通じないことも不可能であり、発信と受信の意図の接続という現象の精度の差が大小あると考えて良いのではと思います。
ここのnoteの目的を改めて考えてみる
この結論、完全無意味は不可能であると気づいた時、ここのnoteは行き詰まりました。しばらく拗ねてしまいましたが、改めて原点の問いを思い出すことにしました。
無意味になぜ惹かれるのか?
意味が無いものの心地よさ、美しさはとはなにか?
完全無意味は、これらの問いとは近いようで、あくまでゼロ地点を示すもので、答えはそのゼロから相対的な現象にあると仮定しました。
まず、一般的に無意味と言われる現象を考えた時、「意味がわからない」「意味がなかった」「無駄」といった、完全無意味でなく、ある程度わかるけど、わからない事を指すと気づきました。それらの構造を考えてみると
「意味がわからない」とは、知っている事が知らない接続をしている、意図の接続が間違った状態。
「意味がなかった」とは、発信者の意図が叶わなかった状態。
「無駄」とは、意味は成立したが、その結果の生産性が低い状態。
つまり、意図の接続が少ないか、そもそも意図が少ない「意味」の現象であると気づきました。
意図の接続が少ない、そもそも意図が少ないといった意味の成立が小さい現象を、「無意味性が高い」と呼びます。
ひとつ別の属性があるのが「意味がわからない」で、これは意味の誤接続によるもので、「デタラメ」という現象に分類されるのではないでしょうか。
「無意味性」と「デタラメ」ぼんやり近いようで違うものが明確に分類できました。
無意味性
意味が小さい(意図が少ない)、意図の接続が少ない現象デタラメ
意味が誤接続した現象。
※意図でなく、意味の接続という現象は追って考えます。
無意味性とデタラメ
だんだんわからなくなって来たのでまとめます。
完全無意味はあくまでゼロ点であって、そこから相対的な現象を分類してそれぞれの魅力について考えるべき。
デタラメと無意味性は近いようで、別現象。それぞれ別に考えるべき。
この2つをしばらく考えてみます。
なんで無意味を研究するのか?
無意味性の高い現象はネガティヴに扱われることが多いですが、意味が少ない美しさがあります。また、デタラメは意味を誤用することでその意味を改めて考える気づきになります。そしてどちらも笑いに繋がります。
「笑い」は改めて考える大きなテーマですが、また別の記事で考えます。
この研究は、一つのカウンターという側面もとても大きいです。
意味が強い、意味が多い事への懐疑があります。
意味が強いとは、文化を形成するうえでとても重要ですが、一方で人を縛る側面もあります。
意味を紡ぐことが、人を形成し、大枠では文化や歴史を形成します。
文化や歴史に組み込まれた強い意味は、当たり前になってしまい、未検証のまま無自覚に受け入れてしまいます。
あくまで過去の意味の接続が強く多く繋がっただけで、元を辿ると実は何も意味が無いことも、強い接続でほどけない事も多いかもしれません。
意味の接続を一度切断し、別に再接続するデタラメによって、強い意味を再検証することはできないか?
強く多い意味の重さのストレスを、弱く少ない意味の無意味性によって、一旦清々しい気持ちになれないか?
この2点がいつも抱いている気持ちです。
お気持ち表明でした。おしまい。