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vol.213/ その領域は、お節介。
年齢を重ねるに連れ、“気が付いてしまう事柄”がわんさかわんさか増えてくる。あれも気になる、これも気になる。それがズンズン侵攻していくと、こうやった方が良い、ああやった方が為になるのに…と人に文句をつけたくなったり、(時に本当に述べてしまったりする)アドバイスと称して自分の意見ばかりを押し付けたりなんかする。
もっとこうした方が良くなりません?
あんなことする意味あります?
エトセトラ
そんな領域にまで達した私は、やれ正義感、やれ責任感などから突き動かされているのだと思っている。ああ全く持って心底面倒でしかない。
前回多様性について書いた側からやっちまってるな!感が否めない。やはり世界中で叫ばれているダイバーシティは遠い国の話ではなく、とってもとっても身近にあって、それは大抵見過ごされていたり、はたまた自分は正義感を持って取り組んでいたりするところに多様性が欠けていたりするものなのだとつくづく、つくづく思う。
もっとこうした方が良くなりません?
あんなことする意味あります?
エトセトラ
これはもう自分の役割である領域を有に超えてしまっているところにまで踏み込んでいる。もうそれはお節介なのだ。年齢とともに今まで見えていなかった事柄が妙に気になってきてあれやこれやと意見やアドバイスを述べたくなる。わかる、凄くわかる。大概良かれと思って言ったりやったりしている。わかる、凄くわかる。しかしそれは、
本当にあなたが言わなきゃいけないことだろうか。
やらなきゃいけないことだろうか。
正義感を振り翳し、人の領域にズンズン侵攻してはいないか。
自分には自分の意見があるのと同じだけ、皆それぞれに意見があって捉え方があって、そしてやり方が違う。そんな当たり前のことがゴッソリ抜け落ちることが日々ある。家の中での出来事にだって、仕事場での出来事にだって、そこら中にこの当たり前は転がっているのに、当事者になった途端ゴッソリ抜け落ちてしまう。
その領域は、お節介。
気が付く事はたくさんあって良い、それは素晴らしいこと。しかし人に何かアドバイスをしたくなった時には一度ブレーキをかけてみよう。それが正義感や責任感からだったとしても。
“その役割は本当に私がすべき事?”
“自分の役割は出来ている?”