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情報は「結論」より「過程」が大事

欲しい答えは、ググればすぐに分かる。
図解本や入門書なら、立ち読みだけでも答えが分かる。

でも僕は、「それって自分の知恵になったの?」「それってただの"うんちく"になってない?」って思う。

答えや結論だけを求める方法には、下記デメリットがある。

・情報を忘れやすい = 時間の無駄
・他人に説明できない = 情報を活かせない = 無駄
・デマ情報のリスクが高い = 自分が"デマの拡散者"になる恐れがある


↑の内容を見て「そりゃそうやろ」って思う人がけっこういるはず。
でもでも、そんな人たちには、一度自分にこう問い直してほしい。

「↑の内容を、自発的に考える機会を設けて、解を求めることは出来た?」って。

…なんかマウントとってるみたいな言い方ですみません。
でもこれが俗にいう「無知の知」というやつ。

▼無知の知
自らの無知を自覚することが真の認識に至る道であるとする、ソクラテスの真理探究への基本になる考え
※参照元:https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%9F%A5%E3%81%AE%E7%9F%A5-140612


「そりゃ当たり前だ」っていう思考で結論に触れることは、ちょっと考え直してみてほしい

結論を知った時は、「どうして?」「本当に?」「もっと掘り下げられない?」っていう3軸で、再度その結論に触れてみてほしい

この3軸で考えれば、情報の「過程」に必ず触れる機会が生じる。
※その結論の解説文を読んだり、もっとググったり、専門書を読んだり…

じゃあ過程を理解するとどうなるか?

・情報を忘れにくい = 有効な情報収集
・他人に説明できる = 知識として活かせる
・デマ情報かを見極められる = 自分が"デマの拡散者"にならずに済む

そして何よりも、情報の「過程」は「結論」よりも普遍的な知識となる

例えば、"XXXX年に○○戦争が起こった"という史実(結論)について、「じゃあどうしてその戦争が起こったのか」という過程を学んでみる。すると、「戦争勃発は、政治要因・外交要因だけでなく、その時代の人間がどんな思考回路・どんな経済状況・どんな感情を抱いていたか、までもが要因になっていた」と気付ける。
そして気付けたその過程は、今の自分自身や社会に活かせる。
「貧困に嘆く人は、どんな苦しみを抱くのか」という関心をもてたり、「怒りを抱く人間がどんな行動を起こす可能性があるか」という探究心をもてたりできる。

情報の過程を知ることは、批判的思考・問題解決の公式・より深い関心、の会得につながる

じゃあ最終的にそれが何になるのか?主に2つある。

・自分自身の生活が豊かになる
・他者への共感が強くなる

1つは、自分自身の生活が豊かになる
趣味が増えたり、家計を見直したり、仕事の業務効率化を図ったり、求めたい生き方を問い直したり、だったり。メリットしかない。

そしてもう1つは、他者への共感が強くなる(=自分以外のことを考えるようになる)
もちろん、「自分の幸せにとって他者への共感は不必要だ」と固い結論が出ている人は、それで良いと思う。今の世の中、誰だって自分の生活だけで精一杯だもの。
でも僕は最近思う。「誰かを助けたい」って行動できる人(他人に共感できる人)こそ、自分が思い描く幸せを得られるって。
だって人間は一人で生きられないから。

例えば、習得したいと思うビジネススキルだったり技術ノウハウだったり、それらは何処で得られるか?それは、誰かがわざわざ書籍にしたり、インターネットに書き込んだり、動画にしたり、教室を開いたり…。誰かが時間と労力を割いて機会を設けている。つまり自己学習ですらも、他人(が作った媒体や機会)への干渉が不可欠、ということ。

たとえ他人による無機質な文章や突発的発言であっても、「この結論に至る理由は何だろう」「この人は何を意図したんだろう」「この人がそう思った背景は何だろう」と"過程"に触れようとすれば、自分のノウハウ(応用が利く知恵)になるし、考える行為自体が他者への共感、となる。


受け身の状態では、自分の人生だって、社会に対する不満だって、何も進まない。受け身になる前に、まず自分が動く必要がある。

そして、情報の「結論」を知るだけでは、応用が利かないし、関心が薄れるし、他人との情報共有ができない…。
情報の「過程」を知ることこそ、自分の幸福だけでなく、身近な他人の幸福・社会の幸福につながる

一石三鳥だなぁ、って僕は思います。


「当たり前だ」が口ぐせだと思った人は、一度考え直してみてはどうでしょう🤔
という勝手な提案でした。

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