見出し画像

「分かりやすさ」の大罪

小説、マンガ、アニメ、映画、ドラマ、ゲーム、歌、写真...。
あらゆる大衆向け(マス向け)創作物において「分かりやすさ」が重視されている。

・タイトルだけで創作物の概要を伝える小説
・キャラクターの心情をセリフ化するアニメ
・敵に見つかるor触れられるだけで死亡確定なマンガ
などなど

僕はこの傾向を不思議に思う。
僕は、表現の余白や行間を読む行為が楽しい、と感じるからだ。

※この考えに当てはまらない方は、下記以降を読んでも共感しにくいと思う。そっと閉じてください...

ではなぜ、マス向け創作物には「分かりやすさ」を求められる傾向があるのか?
僕個人の答えは下記の通り。

■個人的な結論
「分かりやすい」創作物のほうが、出資者が「儲けられそうだ」と安心して出資しやすいから

出資者が儲かりやすいから

創作が資本主義に巻き込まれているから

いつの時代も、「昔のほうが良かった」という言葉を聞く。
本件もその1つにすぎないのか?
答えはNoだ。

唐突だけれど、僕はクリストファー・ノーランという映画監督が大好きだ。
彼の映画表現には「分かりにくい」要素が多々ある。
事実、彼のインタビューにおいて、彼自身が「分かりにくい」表現を用いていることを認めている。
その理由は何か。

彼いわく、「観客を信じているから」とのことだ。
作品ごとに、彼が伝えたいことは確かにある。
けれど、彼は避けているのだ。
伝えたいことを、ストレートに、全て伝える手法を。
そのような手法を、彼は意図的に避けている。

創作物は制限があるからこそ個性的に成る、とよく言われる。
これは経済的な側面(リソース面)だけでなく、全ての側面について当てはまる。
もし全人類が同じ思考・同じスキル・同じ道具を持っているなら、創作でご飯を食べ続けるのはかなり厳しい。
音楽で例えるなら下記の通り。

・みんながKing Gnuの曲をカラオケで90点以上獲る
・みんなが布袋寅泰のギターソロを弾ける
・みんなが秋元康ばりの歌詞をつくる
などなど


創作物は、希少性、つまり個性があるから成り立つ。
さらに言うと、希少性があるから芸術的評価に繋がる。

「分かりやすさ」は、この個性を殺すリスクを伴う。
僕からすると面白みに欠けるし、芸術性の優先度が下がることは非常に勿体ないと考える。


「個性的かどうか判断するのは人それぞれだし、みんなが作品に個性を求めているわけじゃないよ?」
「おもしろいと思う表現は人それぞれやん」

こういう意見はごもっとも。
否定する意図は全くない。
ただ事実として、創作物に「分かりやすさ」が求められている、という傾向が存在する。
そこに僕個人は違和感を勝手に感じている。
ただそれだけだ。


では、誰が「分かりやすさ」を求めているのだろうか?
まず、「誰か」とは何なのか、を考える。

創作物の経済圏は、「作り手」と「消費者」に分けられる。
さらに分解すると、「作り手」は「創作者本人」と「創作者本人以外(例えば資金提供者やプロデューサーなど)」に分けられる。

つまり、とてつもなくザックリいえば、創作物の経済圏は下記3つの要素で成り立つといえる。

■創作物の経済圏要素
・創作者
・出資者
・消費者

前提として、マス向け創作物において、これら3つの要素は完全一致しない、という条件を設けたい。
※下記より出てくる「=」は完全一致の意味で、含めるという意味ではない

まず、「創作者」=「出資者」のケースが考えられる。
自主映画などだ。
ソーシャルメディアの進化等によって「創作者」=「出資者」が成功するハードルは低くなっている、それは事実だ。
ただ、マス向け前提の創作において、それはレアケースだ。
このケースを高確率で成り立たせるには、類稀なる功績とプレゼン力が必要だ。

次に「出資者」=「消費者」のケースもある。
これは、中世ヨーロッパの絵画史にみられる「貴族が創作者に自画像を発注する」ようなケースだ。
しかしこれも、現代のマス向け創作物においてはレアケースだ。
当てはまるとすれば、よほどの金持ちの趣味か、仲間うちだけで作品を楽しむ創作者たち、社会人サークル、などだ。

「創作者」=「消費者」は、そもそも経済圏として成り立たない。

つまり、3つの要素は「相互に影響し合っている関係」(⇄の関係)なのだ。


ここで注目したい相互関係がある。
下記の2つだ。

・消費者→創作者
・消費者→出資者

前者は、例えば「マンガ好きが高じてマンガ家になった」というケースだ。
後者は、例えば「映画好きなある人が金に余力ができ、映画制作会社の株式を買う」というケースだ。
それぞれの懸念点に注目したい。

まずは「消費者→創作者」について。
ここでの懸念点は、サンプリング(引用・オマージュ表現等)による希少性・芸術性の衰退だ。
サンプリングそのものを否定する意図はない。
サンプリングを効果的に用いて、個性を出すことは可能だ。
ただ、サンプリングは安易に使える手法であるため、似たような表現が蔓延しやすく、使い方を誤ると駄作を生み出す。
駄作だと思われることを、創作者は望んで創るだろうか?
成功を目指すのであれば、それは出来る限り避けたいはずだ(駄作をコンセプトにするなら別だが)。
さらにマス向けの創作物となると、たいていは出資者のGOサインが必須だ。
駄作にGOサインを出す出資者が果たして居るのだろうか?

ここでさらに注目したいのは、「出資者が駄作と思うハードルが人による」という点だ。
僕が駄作だと思う作品でも、別の誰かにとっては最高傑作かもしれない。
このような感覚の違いは、出資者であれ消費者であれ、どんな立場内の人にも差異が生じる。

次に「消費者→出資者」について。
ここでの懸念点は、創作物の消費財化だ。
どのような経緯にしろ、創作物に関心が沸いて投資するというのは、一見すると貢献的に見える。
もちろんそのような出資者は存在する。
しかし、マス向け創作物については、大抵は「いかに儲かるか」の視点が優先される。
この考え方は出資者共通で起こり得るが、出資者が創作物に関心があればあるほどタチが悪い。もっと言うと、「創作物を消費財として楽しんできた出資者」だ。
出資者自身が納得できなければ、大抵のプレゼンにGOサインは出さない。損することを恐れるからだ。
この心理は非常に合理的で至極当然であり、否定するつもりは無い。
ただ、このことにより、「創作物の希少性」を実現するハードルが一気に上がる。つまりスポンサーサイドの意向により、「分かりやすさ」を求められるのだ。
そして結局、創作者がもともと実現したかった内容が、スポンサーサイドの意向によって大きく修正される、ということが起こる。
本来であれば、出資者側に創作物のノウハウが求められるべきだ。ただ現状は、「儲かる確率を意識する」=「分かりやすさの追求」が優先されている。


以上2つの相互関係について、いずれにせよ出資者の意向が重視される傾向がある、と言う結論に至る。
これらが、冒頭で述べた結論に至る理由だ。

これはどのような業界でも言えることかも知れない。
しかし創作物は、個人の意思発信・芸術の創造と言った、思想・文化に影響を与える重要な業界の一つだ。
にも関わらず、独創性や芸術性がないがしろにされる傾向があるという点は、個人的には悔しい。


子供の環境を変化させられるのは、子供自身ではなく大人たちだ。
同じ地域の大人の意向、両親のリソース・思想、そういったもの次第で子供の成長過程が決まる。
本件を当てはめるならば、子供=創作者および消費者、大人=出資者だ。
このような構造が変わることを、個人的には求めていきたい。


最後に、この投稿は非常に分かりにくいと僕自身で思っている。
非常に抽象的・目次や見出しの無い構成・感覚的な傾向参照など、これらによって「分かりやすさ」に欠ける投稿になっている。
人に何かを伝えたい時は、やはりある程度の「分かりやすさ」が必要だ。
「分かりやすさ」と「分かりにくさ」、その絶妙なバランス感覚を考えるきっかけが生まれれば幸いだ。

どうすればそのような世界になるかは、引き続き検討が必要だ。
僕は今後、「分かりやすさ」の度合いがどのように変化していくのか、引き続きウォッチしていきたい。
そして将来、創作物に関わる際には、本件の考え方を用いて創作の世界に貢献していきたい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?