留学に行くとは。中心も辺縁もない場所へ。
現代はとにかく窮屈だ。
中心と辺縁で構成される社会では、自由は不自由となり、多様性は差別と化す。
例えばSNS。現代は含蓄ある長編大作より、簡易なショートコンテンツが人気を博す時代だ。明瞭な意味を持つもの、目立つ描写だけに注意を集中させ(中心化)、それ以外(辺縁)を無視する。目に見える情報や出来事が飽和する中、我々の見えないものに対する想像力は著しく低下した。極度な中心化は自由な感性を奪い、精神的なグローバリゼーション、精神の画一化を助長した。
また学歴や資格の取得に必死になる人がいる。資本主義社会は自由な選択肢を可能にする一方で、特定の評価基準に沿うことを前提とする。社会の規定する既存の物差しによって評価されなければ中心世界から阻害されてしまう。そういった焦燥感に支配された人間は、自由な選択肢を目の前に結局は不自由である。既存する物差しに評価されようと大衆が同じ方向を向けば、当然競争が生まれる。それは後に多様性の欠如、格差や差別をうむ。
留学という言葉はなぜか異様に響きが良い。
一つは、我々が同じ価値基準を共有しているためだ。資本主義社会は、留学をグローバルな人材としての価値を測る短絡な指標として、過剰にブランド化してきた。
もう一つは世界の中で日本が相対的に辺縁に位置付けられるからである。留学をして英語力や行動力を獲得することは、世界の辺縁から中心に行くための切符であり、自身の市場価値を高める手段である。
中心化の渦に呑まれた私たちは、留学という物差しが資本主義が作り出した一つの価値基準にすぎないことを知らない。留学に行くことが、世界の中心へ、コアへ進出する一歩だと盲信する。気付かぬうちに我々の思考の枠は歪み、狭まっているのだ。
私もついこの前まで資本主義の常識に毒された不自由な人間だった。”グローバルな人材”という名の物差しに評価される人間になることで、特異な存在になれたという安心感を得たかったのだ。
しかし夜と霧という本はそんな私に脳天直撃級の衝撃を与えてくれた。
ー仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷり味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも意味はあるのだ。(夜と霧、ヴィクトール=フランクルより引用)ー
留学の意味とは何か。
資本主義社会から評価されるためでも、
世界の辺縁から中心領域の仲間入りをするためでも無い。
よくよく考えてみれば中心と辺縁の社会から離れて、本物の自由を謳歌したいだけなのだ。
フーコーの言うように「大切なのは、唯一つの体型には決して還元されえない分散、絶対的な座標軸を持たない錯乱をくり広げること」、「いかなる中心にも特権を与えないような脱中心化を行うこと」である。
留学生である以上、アウトサイダーとして一線を引かれる瞬間は不可避である。英語もろくに話せない外国人というレッテルを貼られることも少なくないだろう。しかし私はこの人間的、かつ不完全な孤独を存分に逆手に取るべきなのだ。他者から異質なものとしてみなされるということは変な期待も物差しもない場所に身を置けるということだ。中心も辺縁もない場所で、内省的時間を過ごせることは滅多にない。
一見意味がなく思えること、周囲が無駄だと言うことを、贅沢に楽しむ。
孤独を思う存分謳歌する。
それが資本主義的思想に洗脳された我々が、この窮屈な現代に抵抗し、少しでも豊かな感性を育むための戦略なのだ。
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