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アニマルウェルフェアはなぜ大事?②【ゲスト:アニマルウェルフェア・コーポレート・パートナーズ】〜運動を成熟させていくために——動物、野宿、フェミニズム
*①の続きです。
アニマルウェルフェアはなぜ大事?
——アニマルウェルフェアについて話を深めていきたいと思います。そもそもアニマルウェルフェアがなぜ大事なのか、まほさんの考えを聞かせていただけますか?
上原 家畜については、現実的に言うと、そんなすぐにはなくなっていかないだろうと思うんです。たとえば、卵に関して、今はプラントベースの卵がたくさん出てきていますが、企業の中には、「プラントベースを増やしていくので、ケージフリーはやらなくてもいいですか?」とおっしゃられるところもあります。そうすると、ケージに残っている鶏たちは、結局ケージの中に残り続けてしまうんですね。
だから、科学的根拠に基づいたアニマルウェルフェアを周知し、それを尊重した飼育方法を実践していくことが必要です。それによって、動物の苦しみも減ります。「どうせ殺しちゃうんだから」ということを言われたこともあるんですが、そうではなくて、生命を受けて生きている生命体なのだから、せめて生きてる間は彼らの興味や欲求を尊重してあげましょう、という気持ちですね。せめて生きている間は、幸せになりたい、楽しみたいという欲求も増やしてあげるような飼い方をするのが、飼う人たちの責任だろうと考えています。
——動物擁護の活動家の中には、ウェルフェアの考え方を許容しない立場の人も少なくありません。私も活動をしていて、ライツ側の人がウェルフェアを実践しているヴィーガンや団体を批判するというインファイティング(内輪揉め)が大きな問題になってきてしまっていると感じています。それについてどう思いますか?
上原 実際、私も最初はその立場にいて、「ヴィーガンじゃないなんてありえない。アニマルウェルフェアの活動なんてしてたらダメよ!」と思っていたタイプ活動家だったので、その気持ちはよくわかります。ヴィーガンになって「畜産物を食べないでください」と言う活動も重要で、企業を見ていると「畜産物を減らしていきます」という流れも、実際ヴィーガンやプラントベースの活動が作ってきているものだと思うので、それを尊重するし、あるべきだと思っています。
ただ、さっき言ったように、畜産が続くのであれば、ケージやクレートに入れられた動物たちを、せめて生きてる間はその現状を変えてあげることがアニマルウェルフェアの活動だと思っているので、そこは丁寧に説明していくようにしています。
——思想が異なる人たちがどのように協力していけると思いますか?
上原 両者が賛同している点は、「動物の搾取が今のままではいけない」ということで、その搾取を軽減したい人たちと、搾取をなくしたい人たち、という違いはあるけれど、根本のところは動物や何かの搾取がいけないと思っている人たちの集まりなので、できればその点で共感し合えるしように私も話をしています。
わたしも過去にありました。パブリックイベントで話をすると、すごい勢いで怒られたり、「あなたはヴィーガンなのに何やってるんですか?」と泣きながら訴えてくる方もいらっしゃいました。でも、議論をして、あとになってその方が「落ち着いて考えてみたらそうかもしれません」とおっしゃってくれたりもしました。本当は同じ方向を向いているんだ、ということを常に念頭に置き、喧嘩はせずに議論を戦わせるようにしています。なかなか難しいですけどね。私の場合は丁寧に説明するように心がけています。
動物の運動を一部の人のものにしない
——あと、ヴィーガンかノン・ヴィーガンかで切り分けてしまう傾向も結構目にしています。私はこの座談会で、いろんな層の人たちといかに協力し合って運動を進めていけるか、ということを目指していて、私自身はヴィーガンですが、生田さんはフレキシタリアンで、栗田さんはノン・ヴィーガンです。ヴィーガンたちが集まって発信していくことももちろん大事ですが、おそらくヴィーガンだけで発信していただけでは聞いてくれない層というのはあって、わたしたちはこういうグラデーションのあるメンバーでやっているからこそ、今まで動物の問題にまったく関心のなかったノン・ヴィーガンの方も記事を読んでくれたりしているのかなと思います。
まほさんは企業と交渉されていらっしゃいますが、ノン・ヴィーガンの方とも協力されているわけですよね。
上原 そうですね。私は自分の団体を作ったとき、このロゴのマークにあるように、みんなが手を取って、多様な立場の方が、同じ方向を向いて一緒に前に進んでいく、という思いを入れました。
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アニマルウェルフェアや採卵鶏の仕事をずっとしてきた中で、今までの動物愛護の活動は一部の人たちのものになってしまっていて、他の社会問題と同じ俎上に来ていないと思ったんです。人権や他のいろいろな問題と同じように、動物の問題も私達人間が一緒に考えていかなきゃいけない社会問題なんですよ、としていきたかった。そのためには、アニマルウェルフェアをもっと広く周知して、多くの方に賛同してもらい、関与させていく。それが運動をもう一つ上のレベルに上げるものではないかと思っています。やっぱり賛同者が増えると運動も大きくなっていきます。
——私自身も、最初にヴィーガンになったのは、アニマルウェルフェアの考え方に賛同したからなんです。アニマルウェルフェアの考え方は間口が広く、ヴィーガンに関わらず、肉を食べるにしても、動物の苦しみが少ないものを選びたい、と思う人は少なくないので、まずはそこから関心を広げていけたらいいなと思っています。
上原 基本的に人間も動物ですからね。私は1人でいるのも大好きですけど、人と話したり、いろんな仲間が増えていくことが好きなので、人に会うたびにいろんな切り口でアニマルウェルフェアの話をしたり、気づいてもらったりということを常にやってるかもしれないですね。
プロの活動家になるということ
——あと、運動のレベルを高めていくための一つの要因に、経済的な問題もあるかなと思いました。前に台湾の活動家の友人に聞いたら、台湾の動物保護団体でボランティアだけで活動しているようなところは聞いたことがない、と言われたんですよね(*https://note.com/dontoverlook_ha/n/nafd8969305b5)。だいたいみんなお給料をもらって、仕事としてやっている。一方、日本だと、スタッフの人がいることもあるけど、ほとんどがボランティアだったり、みなさんかなり無理して活動していますよね。これは続かないな・・・というのをわたしもその中で感じています。
上原 私もそれは思います。ボランティア精神というのはすごく大事なことですけれども、ボランティアをしている中で「これだけ自分がやっているのに理解してもらえない」とか「お金ももらわないで、自分の自由時間を使って、これだけ身を粉にしてやってるのに理解してもらえない」となっていくと、結果としても自分たちが不幸になってしまう。動物の活動だと、どうしてもそういうことが美徳になっちゃっているようなところあると感じたので、ヒューメイン・リーグに入ったときに、トレーニングを受けて、お給料をもらってしっかり結果を出していく仕事の仕方を学びました。
ボランティア精神も大事なんですけども、レナさんがおっしゃったように、日本でもプロの活動家になることというのはもっと必要だなというのは感じます。そのためにはお給料もちゃんと出す。お給料も出す代わりに、結果も出さないと寄付もいただけないのですが、そういう意味では、「仕事としての活動家」というのは私も必要かと思います。そのメリハリをつけて、お休みの日はしっかり休んでもらい、リチャージしてまた仕事をしてもらう、という活動が健康的なやり方なんじゃないかと思います。
生田 お金の問題で言うと、僕は38年前から活動してるけど、全部ボランティアなんです。貧困問題・野宿問題でいうと、多くがボランティアで、それが主流でした。比較的最近になってから、行政あるいは政府が、貧困問題を何とかしなきゃいけないという流れになって、仕事として貧困問題に取り組む人が出てきた感じなんです。個人的には両方必要だと思っていて、僕らは他に仕事をやりながら空いている時間に活動しているので、平日フルに動けるかと言ったら、そんなことはないんですね。そういう場合は、給料をもらってフルタイムで働いている人のところに協力を依頼することがあるので、それは非常にありがたいんです。
一方で、お金——特に行政からのお金をもらうと、どうしても活動が制約されるという問題もあります。一つは、行政の言うことにある程度従わないといけない、という面もどうしても出てくるので、そこでボランティアで活動している人と、仕事として活動している人の間で、激しい対立がたまに起こったりするんですけれども、それは否定できないと思うんです。
だけど、全体として問題解決するためには、両者がお互いの限界を認め合った上で、批判しながら協力するということが一番ベストだろうと思います。そうしないと、当事者の人が取り残されちゃうんですよね。つまり、二つの陣営が激しい論争をやっていて、時には運動自体がストップしてしまう。そういう意味で、できる限り批判と協力を両立させる、ということが重要だろうなと思っています。これは綺麗事で、なかなかそう簡単にいかないんですけど。
貧困問題における対立と比較して
——生田さんは野宿者支援の運動など他の運動もされてきて、動物運動内でのウェルフェアとライツといった対立に関して、似ていると感じる点はありますか?
生田 アニマルウェルフェアとアニマルライツの問題のようなものは、おそらくいろんな現場であって、平たく言うと、福祉的な改良主義と、根本的な解放主義の問題だと思うんですね。野宿の問題でも、もちろんちょっとずつ改善していこうという方法と、むしろ社会のあり方そのものを問わなきゃいけない、野宿の側から社会を変えなきゃいけない、という二つの道の方法があって、これは多分社会の問題の見方の違いだと思うんです。これについても、お互いに批判しながら、少なくともお互いの立場を傷つけない・否定しない・阻害しないということが大前提であって、その上で事態を少しずつ変えていくしかないと思っています。
具体的には、工業畜産は当分廃止されないと思うんですよ。実際、世界的に見れば、発展途上国ではどんどん肉の消費量は上がっていますし、そういう意味では極めて厳しい状態です。その中ではやはりアニマルウェルフェアを取り入れていくことと、動物解放/アニマルライツの両方をやっていくことが、結果的にはベストかなと思っています。
というのも、僕は38年間貧困問題やってますけど、問題はほとんど解決してないんですよ。そういう意味ではちょっとでも改善したら万々歳なので、事態が悪化する中でもちょっとでも抵抗していく、ということが唯一できる行動なので、悲観的かもしれないけれど、少なくとも踏みとどまったり、改善できるところを1個1個見つけていくしかないのかなと感じています。
——野宿の側から社会を変えなきゃいけないというのは、野宿すること自体は肯定する、ということでしょうか?
生田 野宿に対する見方も、極端にいうと二つの見方があって、一つは野宿は解消しないといけないという考え。健康にも良くないし、危ないし、だからアパートに入る生活にしようという考え方です。ただ一方で、野宿の現場にいると、例えば野宿者同士の助け合いというのは、『災害ユートピア』という本がありましたけど、ほとんどユートピアに近い助け合いが行われたりしていて、こっちの方がむしろ本当の社会じゃないか、という見方もあるわけですね。これは僕の実感でもあるんですけど。
だとすると、「野宿は究極の貧困だけど、社会関係の上では、むしろ一般の社会より豊かじゃないか」という批判はあり得るんですよ。僕はこれを「経済の貧困と関係の貧困」と言っています。もちろん理想は、経済的にもある程度豊かで、社会関係も豊かなものが一番いいんだけど、現状ではそれが対立させられていて、野宿か居宅かという選択肢をしてもらうことがあります。ただ、僕が思うのは、その両方の可能性をみながら、どうやって社会を変えていくか、ということですね。
フェミニズム運動の分断の歴史
——栗田さんは女性の労働運動だったり他の運動もされてきて、似ていると感じる点はありますか?
栗田 まず分断の話からすると、もともと女性の位置自体が分断を含んでいるんですね。例えば「働く女性と主婦」、もっと言えば、キリスト教のマリアとイヴのように「貞淑な女性とそうじゃない女性」といった形で、男性の視点によって女性が分けさせられてきて、そういう女の人の分断をどうやって解決していくか、という話をしていったのがフェミニズムの歴史なんですね。
いわゆる「女性の分断」と呼ばれるものも多岐に渡っていて、女性だからということでひとくくりにできない。女であるということで差別はされているんだけれども、他方で、白人女性の経験と、アジア人女性の経験と、黒人女性の経験は同じなのかといったら、おそらく違う。あるいは、セクシュアルマイノリティの女性と、セクシュアルマイノリティではない、いわゆるヘテロセクシュアルの女性の経験は同じかと言ったら、そうじゃない。
フェミニズムは「女性解放運動」と訳されるものではあるけれども、「女性」という括りで差別されている一方で、じゃあ女性の置かれている位置は1つかというと、当然そうではない。でも社会を変えるには、ある程度共通項を見つけて、団体的・組織的にものを言っていかなきゃいけない。例えば労働運動だったら労働組合を作ったり。
ただ、女性の解放運動が難しいのは、まず、フェミニズム運動の中でも支援運動が盛んである一方で、それだけでは足りない部分があるんですよね。例えば、シングルマザーや貧困女性への支援はある程度必要ではあるけれど、フェミニズムの求めるものとしては、支援というよりも「主体とは何か」「自分で決定して権利を持って行動するとはどういうことか」といったことを求めてきた運動でもある。でも、ここでまたややこしいのが、「主体」や「主権」というと、それは男並みになることなのか? 男のように生きるということなのか? というと、そういうわけでもないんじゃないか。そういうふうに、フェミニズムには討議の歴史があって、「権利とは何か」「主体とは何か」「物を言っていくってどういうことなのか」といったことについて多くの議論があった。
例えば、第一波フェミニズムと呼ばれる、女の人の公民権・選挙権がなかったところから、それらを勝ち取っていく運動がまずあった。でも、多くの国で選挙権が取れるようになった中で、「選挙権は取れたんだけど、家の中で家事をするのはいつも私だ」とか「気が付けば夫の言うことばっかり聞いちゃってる」とか「すごく男性の目を気にして生きている」といった疑問——日本のウーマンリブだと、1970年代の安保の中で「運動家のためにおにぎりを握ってあげる自分って一体何?」といった、そういう疑問から第二派フェミニズムがスタートして、もっと私的な問題、身近な性差別の話になっていった。それが第三波フェミニズムになると、今度はセクシュアルマイノリティの女性だったり、白人女性だけではなく先住民族や黒人女性などの話も取り上げられていくようになった。そういうふうに、元々議論が大事だとされてる中で、議論の困難さも同時に引きずりながら、フェミニズムはやってきた。
対立はずっと続きながらもフェミニズムが女性の権利を獲得してきたように、アニマルウェルフェアとライツとの対立も、問いが生まれていくのと同時に進行しているような気がするんですよね。わたしはフェミニズムと付き合ってきて、自分も叩かれたりしながら、簡単に解決もしないままに、でも何らかの権益を得たり、あるいは女性の何かの地位だったり、社会的な位置づけが変わってきたので、やっぱりそういうものが同時進行で存在していることが大事だと最近は思います。自分の立場だけが絶対なものと思わないで、自分とちょっと違うものがある中で、いろいろそれぞれがやれることをやっていくことを認め合う。
正直、対話がそんなに厳密にできるとも限らないんですよね。みんな疲れちゃって対話できなかったり、どうしても感情的になっちゃたり。だから大事なのは、距離を多少置きつつも、同時並行させていくことなのかな。例えば、ヴィーガンはヴィーガンでやっていくことたくさんあるし、ウェルフェアはウェルフェアでたくさんやっていくことがある。実際何か問題が起きたときには議論をするけど、それで意見が完璧に一致するかというと、それはやっぱり難しいし、しかもそんなに重ね合わせる必要があるんだろうか、と思うところがある。個人的に仲良くなくても、この社会全体としての変貌が生まれるんじゃないか、というのが私の最近の感覚なんですよね。
NPOで横領が起きちゃったとか、そういう当たり前に悪いことには「駄目」と言わなきゃ駄目なんだけれど、考え方の違いは、小競り合いもありつつ、同時並行して、どういうところで議論しあい、どういうところでは意見が一致しないままでも共有して進めるか、といったことが大事なんじゃないかというのが、私も2000年代ぐらいからフェミニズムの運動に関わってきてもう25年ですが、感じるところです。
——そうですね。違う考え方でも、同時並行させていくということは、運動自体を成熟させていくということでもありますよね。一つの考え方で一点突破するのではなく、運動の中でも多様性がある、ということは、その運動自体を成熟させていくことにも繋がるのかなと思います。
→③へ
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