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動物問題と部落差別(序)③攻撃性の連鎖を止めることはできるか?
*②の続きです。
フェミニズムの攻撃性――「自分たちは報われない」という悲壮感
——「肉を食べないのは部落差別だ」というのもそうだし、さっきの「農家さんがかわいそうだろう」というのもそうですけど、こういうのってなぜか第三者が言ってくることが多いんですよね。当事者ならともかく、どうして第三者が激昂して言ってくるのだろう、という点も気になります。
栗田 今回深沢さんが受けたひどい発言の数々は、深沢さんがその場ではお客さんだし、若いということもあったから言えたのかな、とも思えてしまうんですよね。それがもっと権威的な人だったり地位の高い人だったら、そんな出方したのかな。もしそうならば本当に部落差別のことを考えているわけでも、畜産や食肉の問題を考えているわけでもなく、相手を負かせたいからという・・・ヴィーガンの問題でもなんでもない。何の社会問題の解決にもなってない。しいていえば、誰がその場で権威を握るかみたいな瑣末な問題を、ものすごい大きい言い方をして、深沢さんの口を封じさせたというふうに見えてしまうんですよね。
そういうことって社会運動界隈で多くて。つまりその場でその相手を黙らせるためになら何でもするみたいな、実はすごい狭い場所の覇権争いみたいなのをしたいだけなんじゃないの?って感じました。私は、自分が完全なヴィーガンでもないし、部落差別のことをちゃんと知ってる人間じゃないけれど、そういう、運動の中の覇権を誰が取りたいかという争いに、大きな社会的問題の言葉をぶつけるな、と言いたくはなるんですよね。
これこそ実は社会運動の運動内の大きな問題で、本当はその相手が生意気だと思ってたり黙らせたいだけなのを、大きい言葉で威圧して黙らせるということは、昔女性たちは男性たちにやられたんじゃないのと思うんですけど、自分たちがやられてきたことを女性がまた、自分より若かったり経験がない人に対して行うのは非常に悲しいし、やめてもらいたいし、私はやりたくないのが本音です。
――今回の件が、逆にただのアンチの嫌がらせとかだったらもうわかりやすいんですけど、いじめだったり、弱いものを押さえつけたいという欲求を、正義という盾を着て、こっちに罪悪感を植え付けるようなやり方でやってくるのは悪質だと思った。やっぱりハラスメントでも、「これは指導なんだ。これが正しいことなんだ」と正しさを装って人格否定などをするわけですよね。そういったことを社会運動をやる組織がやってしまっていることにも、その自覚のなさにも危機感を覚えます。
あと、動物運動をやってると「家畜を飼ったことあんのか」みたいなことも言われたりします。今回もまさにそれを言われて。わたしに強く言ってきた人の一人は、実家が家畜を飼っていたそうで、「あなた家畜の世話したことあんの?」と言われて、わたし自身はなかったんで「ない」と言ったんですけど、「世話の大変さを知っている私が言ってるんだから私が正しいんだ」というような論法だったんですね。でもそれを言ったら、「ガザ行ったことないならパレスチナ問題語るな」みたいなロジックにもなりかねないし、これはもはやただのマウンティングだと思うんですけども。
栗田 インターセクショナリティを語るときに、プリヴィレッジとか特権という言葉はありますけど、日本のフェミニズムの中で——これはあんまりよその国の労働運動とかでは感じないけど、日本だとやっぱりちょっとした集まりでも感じるところとしては——「自分たちはこんなに頑張っているのに問題は解決されてない」という悲壮感が、他者への攻撃に転じやすいという要素が強くある。
これは心理分析みたいになるので、あんまり私のやるべき仕事でもないんですけど、攻撃性みたいなものと、「自分たちは報われてない」という気持ちがいつも表裏一体にある気がします。それは別に一つのフェミニズム団体を指しているわけではなく、いくらでもそういう人に私は会ってきましたが、今回の深沢さんの一件はわかりやすい事例になってしまった一件だったと思ったんですよね。
しかも、それをそういう形で深沢さんにぶつけたところで、フェミニズムの問題が解決するわけでもないのに。もうそれだったらいっそ運動をやらない方がいいんじゃないか、と喉元まで出かかってしまうぐらい、悲しい気持ちになります。しかしそれは日本の運動の中で私が何度も出会ってきたことではあって、フェミニズムの側からも大問題なんだけれど、なんにも名前がついてなくて。これが私が今回の座談会でフェミニストの立場から言いたかった問題です。つまりフェミニズムの、被害者でありかつ加害者という表裏一体の暴力の問題という話…私が謝ったってしょうがないんだけど、なんだかもう情けないやら、申し訳ないやら、悔しいやら…というのが正直な気持ちですね。
——加害性の自覚がないフェミニスト、というのはわたしも結構出会ってきたし、女性の加害に甘い女性も多く見てきました。具体例を出すと、わたし自身が、伊藤比呂美という女性の大御所詩人からSNS上で二次加害をされて、わたしの信用性が毀損され、いまも何も回復していないままなんですけど、このとき、詩壇の周囲の女性たちが伊藤比呂美に忖度して、私を黙らせようとしてきて本当に嫌だった。「比呂美さんはご自身もたくさん叩かれてきたから、他人の名前を出して批判することに敏感なのよ」と私の怒りを収めようとされたんですけど・・・いや、比呂美の事情は知らんがな。
栗田 それも文脈がバラバラな話なんですよ。伊藤比呂美がひどい目に遭ったのは事実なんでしょうけど、それが深沢さんに対しての加害が免罪される理由には何一つならない。やっぱり文脈の混同がそこでは起きている。
私にひどいことをしたフェミニストだって、間違いなくひどい目に遭ってるんですよね。だけど、じゃあ私に対して無理解な態度を示してよかったのかというと、それはそんなことはないわけで。これは文脈の混同としか今は名前が付けられないんですけど。右派はわざと文脈を混同させて金儲けするのが得意でシオニストとかレイシストはそれで金儲けしてる気がするんだけど、左派は文脈を混同させることによって自ら衰弱させていく、という感じが否めない。
後回しにしても何も解決しないことは歴史が証明してるのに
――これはまた別のフェミニズムの運動体でわたしが体験したことなんですけど、ある有色女性のアーティストの存在を知らしめようという運動に呼ばれて参加したときに、そのアーティストの作品のなかに、生きた鳥の足を掴んで、逆さにしてその首をかっ切って、血を浴びる、というパフォーマンスがあったことを知ったんです。
わたしはそれまでそのアーティストのことを知らなかったのですが、その作品を見てめちゃくちゃショックを受けたし、そこでモノとして扱われて捨てられた鳥の存在は完全に見過ごしながら、「彼女の作品は力強い、素晴らしい」と称賛しているその場の空気にもショックを受けて、そのことを指摘したのですが、「それもわかるけど、まずやっぱり有色女性である彼女の存在を広める運動が優先ではないか」みたいなことを言われて、あまりにも動物問題に対してと女性の問題に対して温度差があるのが苦しくて、結局私は離脱しました。
なので、人間の問題が解決してないから動物の問題は後回しでいいとされる傾向はあるのかなと感じます。
栗田 そのロジックって、男性の問題――全共闘運動とか、民族でも、大学の問題でも、ベトナム戦争の問題でも、何を入れてもいいんですけど、「その問題が解決してないから女性の問題は後回し」とかつて言われて、いろんな言論を封鎖されてきていることがありました。そこで後回しというのが問題の解決にも繋がらなかったというのは歴史が証明してるのに、ということがまた私はつらくて。
たとえばそれも、「そういうアーティストがいた、でもこのアーティストはそういうところで決定的に間違いを犯した」と同時に伝えるのでは駄目だったのかな。まさに交差性ってそういう問題だと思うんですけど、問題を複数的に伝えるとか、複合的に伝えるとか、そういうことがなぜできないのか、難しいのかっていうことを考えないと、自分の被害の文脈ばかり押し広げたり、違う文脈と違う文脈をまぜこぜにして何の解決にもならない言説ばかり発してしまいがちなのではないかと。私はそれが恐ろしくてならないです。
生田 差別を受けている人も別の属性の人に差別することはあります。それは一つ一つ区別して、この問題については差別者になってしまう、この問題について被差別者である、ということを明確にしていくしかないと思うんですよね。
話が戻りますが、一方で、もし動物の問題じゃなくて、別の問題、たとえば障害者問題や環境問題だとしたら、深沢さんがこんなに叩かれたかなと疑問に思いました。やはり動物の問題だから叩かれる、ということもあったんじゃないか。というのも、マジョリティの人も、動物問題だとすごい頭に血がのぼって、意味のわからない詭弁を言うことはよくあります。それこそ「植物だって命があるだろう」みたいな。動物問題が社会の中で認知されていないし知識もない、そうした中で、とんでもない差別意識を多くの人が持っているという問題と、栗田さんが言われた意味での、社会活動している人たちが「自分の加害性の問題に気づかない」という二つの問題が重なったところに今回のケースがあったのかなとは感じました。
栗田 確かに、動物の問題には血が上りやすい具体的な事例はあって障害についてはすごく詳しいし理解もあるのになんで?みたいな人も実際にいたりしますから。人間何に血が上るのかはわかったものではありません。
——さっきの文脈をごっちゃにするというのと多分一緒なんだけど、雑に二者択一にしちゃう、という問題もあると思うんですよね。今回わたしに激しく言ってきた人は、「動物か部落の人かといったら部落の方を取る。私は人間の方を取る」というふうに言ってたんですけど、そもそもわたしそんな図式出してないし。
栗田 人間を切り捨てろとは一言も言ってないよね。
——こっちはそんなことまったく言ってないんですけど、そういう雑な二項対立を勝手に作られて、「ヴィーガンは人間のことはどうでもいいと思ってる」と言われることもあったりします。
栗田 ありがちなのは、有名人のヴィーガンばっかり注目しがちな問題と、いわゆるシーシェパードとかの一番尖ってる人や団体しかインプットしてない問題がありますよね。フェミニズムにしてもヴィーガンにしても実際どういうふうなことを全般的にやってるのかな?という話にはならないで、切り取られた情報とか、切り取られたイメージをもとに二者択一のオールオアナッシングの選択を提示して、「お前らおかしい」みたいに言ってくるやり方さ、ことに動物問題だと激しいかもしれませんね。動物が物を言えないのをいいことにというか。
詭弁に対抗してきたのがフェミニズムではないのか
——「肉を食べることで差別されている人たちを支えているんだ」という主張についてはどう思いますか?
栗田 それは「買って応援」みたいなことの単純さにも繋がる感じがします・・・。福島でもね、原発が落ちた後、やたら「買って応援」みたいな言葉が出ましたよね。実際買って応援する側面もないとは言わないけれど、そのときの胡散臭さを同時に私は感じてしまう。そういう「肉を食べることで部落差別に反対する」とか「食肉処理をしてる人を支える」というのは単純すぎるというか。
生田 部落差別する人の多くは肉食しているんだから、完全に詭弁だと思います。
栗田 詭弁は詭弁だ、といっていかなくちゃいけないのはもちろんなんだけど、SNSでも、直に話しても、詭弁は詭弁だと納得しない人もいっぱい見てきてるから、どうしたらいいんだろうと思います。
物悲しいのは、社会運動の中で、まさに詭弁と戦ってきた歴史を、フェミニズムも積んできたんじゃないの?っていう。「女性差別じゃない、これは区別だ」とかいろんな詭弁がフェミニズムの周囲に巻き散らされてたわけじゃないですか。「女がマラソンしちゃいけないのはああでこうで」とか「女性の体は論理には適してない」とか、本当にくだらないことを医者なり何なりが詭弁を費やして女性差別を作ってきた。そのことに抵抗していたのがフェミニズムだったんじゃないの?と。なんで自分たちが詭弁を発する側になんなきゃならんのだ。
生田 男女別姓問題の詭弁と似たものかもしれませんね。
栗田 「男女が別姓だと家族が崩れる」とか言うわけじゃん。そういう詭弁に対してフェミニズムは、「なにその家族って?」とか「崩れるってどういうこと?具体的にいってくださいよ」とかずっと言ってたわけじゃん。
生田 「肉食は文化だ」というのも、そういう意味での文化かなと思うんだけど。
栗田 なるほど。「家族という文化が崩壊する」みたいな。これはお伝えしたいね。なんで敵と似たようなものになっちゃうんだよ、って。敵に似たようなものになる、ということが多い昨今なので、私がそうならないように私自身も願ってるけど、私がそうなったら誰か止めてくれと思うけど、そうなってしまったらもう聞く耳も持たないのかもしれない。
――栗田さんがそうなったら怖いですね(笑)。今回の件はその場にいたのが私だけだから、体感したのは私だけになっちゃうんですけど、矢継ぎ早に反論されたんですよね。どんだけめちゃくちゃなロジックだったとしても、頭の回転は早いんだと思う。でも、そもそもそんな早く言い返さなくていいじゃん、って。
そういう場に行くと、ちゃんと言い返せなかった自分に自己嫌悪になったりはするんですけど、でも前の座談会でも話に出たけど、いわゆる「強い活動家」しか残らなくなってしまうことのほうがわたしは問題だと思う。こうやって1ヶ月とかかけて、あれはどう意味だったんだろう、いやあれは違うな、とかじっくり考える時間って、むしろ必要なんじゃないかな。一瞬で言い返して、「はい、あなた合わないから来なくていいです」というふうにしないでいいと思うんですけどね。
栗田 そんな論破とかする必要ないんだし。これは余談ですけど、遙洋子という、関西中心に活躍しているタレントがいるんですけど、2000年に上野千津子のところで勉強した様子をまとめた『東大で上野千津子にケンカを学ぶ』という本があるんですよ。私は上野千津子とかの批判をしてきたんですけど、上野千鶴子に限らず、そういうやり方で瞬発的に勝つということでは全然得られなかったものがあるというのが、この20年でわかってきた部分もあり、私はゆっくり考えていっていいんじゃないんですかとしか言えない。そこの場で言い負かしたことができたとしても問題は解決していないので。
生田 橋下徹が「私は議論で負けたことない」と言っていました。橋下徹に限らず、議点をずらして混乱させてどんどん相手を否定しているだけのことが多くて、ああいう「論破術」が一般化するのはまずいと思う。
人を動物として例える差別のあり方——「人間動物」と表現したイスラエル
――部落の人たちを動物として例える差別のあり方と、イスラエルの防衛大臣がパレスチナの人たちを「人間動物」と言って今も攻撃している問題には、やはり共通するものがあると思っていて、さらに、それを考えることは、今ひどい扱いを受けている現実の動物たちのことを考えることにも繋がる気がするのですが、どう考えられますか?
栗田 そこにはいろんな差別が入っていて。「人間じゃない」とみなすことでどう扱ってもいい対象にすることとか、それを動物に紐付けて「動物には何してもいい」とすることとか。それは結局、さっきの天皇制のように、高貴なものと差をつけて、部落差別の人の戒名には動物の名前を付ける、というのは有名だけど、そうやって差別化を図るやり方をしてきたりとか、対等なものじゃない、ということを示すために動物を勝手に持ち出し、そして動物には何をやってもいい、ということに結びつけていくやり方もあり、そこに従事する人たちをまた差別したり、という、そこには幾重にも嫌な形で、動物と人間の両方をひどい目に遭わせるやり方がとられてきた。
しかも、それはまた各地で違う部分もある。つまり、イスラエルだったら、一方でヴィーガン料理を作って売り出して、一見すごく動物に優しいのかなと思ったら、「人間動物」という言い方をしたり、また、日本みたいに部落差別みたいな形で差をつけていくやり方もあり、そこの類似性と差異も見ていかなきゃいけないということなんだろうなと思う。
ただ、私自身はやっぱり、パレスチナへの攻撃の理由に、「あいつらは動物のようなもんだ」という言い方をしたことは、忘れられない出来事ではある。それは明らかに「攻撃をしていい存在」としてみなし、それを動物に結びつけた動物差別でもある。これは残さなきゃいけないし、許しちゃいけないことだというのは、間違いないと思います。というか、イスラエルの防衛大臣の発言を聞いて、本気で動物差別なくそうって思った。
――だからむしろさっきみたいに「動物か人間か」みたいな二項対立にしちゃうことは、逆に危険ですよね。
栗田 簡単な図式にすることで、差別なり、殺人なり、あるいは動物を殺すことの正当化を生んじゃう可能性が大きいですからね。
感想
生田 今回は深沢さんが非常にしんどい思いをして、とても耐えられる状況じゃなかったと思います。ただ、こういった形で逆に社会的な問題にしていったということは、大変ですけど、意味があったと思います。動物の問題、部落差別の問題、フェミニズムの問題と、いろんな問題が複合しています。これをごちゃごちゃにしても話は進まないので、1個1個区分けして、誰が差別の立場にあり、誰が被害の立場にあり、という面倒だけど必要な事をやっていかないといけない。今回は、それが少しでもできていればよかったかなと思います。そして、運動内部の抑圧はどこでもありうるので、栗田さんが言ったように、自分も絶えず自己検証しないといけないな、ということを改めて思いました。
栗田 私はやっぱり怖さを感じました。私は深沢さんを攻撃した側にならない保証がないという怖さを正直感じるような出来事なんですよ。まずそれが一つ。どうしたら、そういう攻撃性みたいなものの連鎖を止めることができるんだろうか、ということを改めて考えさせられる契機でした。
――わたしは今日はあんまり頭が回らなかったんですけど、頭の回転が速くなくてもやっていける社会運動の回路というものをここに残せればと思います。もちろん部落差別の問題は1回だけでそのすべてがわかるような問題でもないので、引き続き考えながら、でも動物の問題についても議論を進めていければな、と思っています。どうもありがとうございました。
※2024/10/30 一部修正しました。
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