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動物問題と部落差別(序)②日本の肉食禁止と差別の歴史
*①の続きです。
(文責:深沢レナ)
日本の肉食禁止と差別の歴史
――日本って675年に肉食禁止令が出されてから、長い間、国家が肉食を禁止していましたよね。そのことによって肉食に対する差別が生まれたのでしょうか?
生田 歴史的な問題については僕もそんなに詳しいわけじゃないんですが、『いのちへの礼儀』を書くときにかなり調べました。
日本では飛鳥時代の675年に最初の肉食禁止令が発布されるんです。以降、明治4年まで、1200年近く日本は国家として肉食を禁じ続けます。
これにはいろんな理由があったんだけど、一般には肉食禁止令は、仏教を国家宗教とした日本が、殺生を避けるために行なった政策とされてはいます。だけど、同じように仏教の影響を受けている中国・朝鮮では肉食禁止が続けられたことはないです。
そもそも日本は邪馬台国の頃から、「何かあったときには、とりあえず肉を食べるのをやめよう」という「物忌み」の規定があったので、古くから日本には肉食忌避の習俗があったらしいです。
一方で、日本には、大陸から牛や馬が輸入されて、その肉を食べたり、皮を処理する人たちが多く出てきました。部落問題がなぜ関西中心かというと、関東以北は馬が主流で、関西だと牛なんです。皮革業は牛が中心なので、それで職業差別と相まって、部落が集中的に関西に作られたみたいです。
奈良時代の前にはそういった人たちが差別されることはなかったようですが、奈良時代には、肉食の忌避の問題から差別をされる対象になって、平安時代になると完全に差別が行われていたようです。
これはおそらく、日本が米食中心の社会になったことが関連しています。一つは、日本といっても沖縄(琉球)と北海道は全然違うじゃないですか。そもそも水田を作っていなくて、稲作が進んでいなかった北海道と琉球では肉食が禁じられることはなく、従って、動物の解体に関わる人たちが差別されることもなかったようです。そういう意味で本土とはまったく違う。
日本本土では、ヤマト朝廷が稲作政策を国家の最重要課題の一つにしていきます。例えば古事記とか日本書紀では、日本のことを「豊葦原の瑞穂の国」という言い方をしますね。瑞穂って、瑞々しい稲穂のことだけど、ヤマト政権は稲作を国の中心として、土木工事を次々と行って、水田を中心とした米社会を目指していったんです。
ヨーロッパでは、家畜の糞尿による堆肥で、畑や牧場の土を肥やして、そこで育った草や果実を家畜が食べるというサイクルを作って、農耕と牧畜を一体化させました。だけど、稲作水田では家畜の堆肥は必要とされない「稲作と畜産業の相性の悪さ」という問題があります。なので、家畜の飼育や畜産業は、稲作中心の日本では必要とされなくなりました。玄米と味噌(大豆)と漬け物(野菜)で必要な栄養を満たす方向に行ったわけです。
一方で、ヤマト政権は天皇を中心とした祭政一致を基礎としましたが、その重要な例が、飛鳥時代から始まって現在も毎年宮中で行われている新嘗祭(にいなめさい)です。
これは、「神話の上で、稲をはじめとする農耕の祭祀権が、自らに属することを確認させた天皇は、神々を統轄する最高神に供物を捧げ、神人共食を行なうことによって際限なく神に近い存在となる」(原田信男『歴史のなかの米と肉』)という祭儀です。今でも「お米ひと粒に7人の神が宿る」と言いますが、米は天皇と神を繋ぐ清く尊い食べ物、農作物の中で聖域にあるものとして別格扱いされるようになります。それと反比例するように、肉食が罪や穢れという意味を持たされるようになっていきます。
実際、奈良時代には公的な場から肉を排除する法令が集中的に発布されて、奈良時代以降には仏教と神道が「神仏習合」によって一体となって、ともに肉食を「罪」や「穢れ」として忌避していくようになります。
こうして、仏教による殺生の罪と、神道での肉食への穢れの意識から、鎌倉時代から狩猟や屠畜に関わる人たちを社会的に差別する意識がだんだん強まっていきました。特に農業に使われる牛や馬の解体処理に関わって、牛や馬の肉を食べる人たちが厳しい差別を受ける、という状態が常態化していきます。この不条理な差別が、被差別部落の人たちが多く従事していた食肉処理や皮革業への職業差別などの形で現在までずっと続くわけです。
なので、日本の場合、天皇を中心とする、米を中心とした高貴とされるものと、肉食を穢れや罪とする意識を一部の人たちに押し付けて差別するという構造がずっと続いていて、それが日本社会を規定して、部落差別の強固な基盤になってきたのかな、という印象を持っています。この点、詳しくは『いのちへの礼儀』を見てください。
こうして、日本は動物の食肉処理に関わる人たちを差別する社会構造を長年にわたって維持してきました。その差別が続く中、近代以降の日本は、生き物である家畜への構造的な暴力を工場畜産という形で続けてきているわけで、その両方を解決していかないといけないはずです。だけど、「肉食の否定は部落差別に繋がる」という言い方は、その二つの問題を解決するんじゃなくて、二つの問題とも解決しないような乱暴な議論になっていると思うんです。部落差別の問題と動物の問題を対立、分断させてしまうんですから。そういう意味で、部落差別の問題と、動物への暴力の問題を、どうやってともに解決していくかということが問われていると思います。
文脈を混同して語ることの危うさ
栗田 「文脈を混同するな」と先ほどから私は主張していますが、今生田さんの話を聞いてて、日本独特の価値観と仏教的な思想をミックスさせた文脈での「肉食への蔑視」という話と、現在大量の工場畜産をして無意味に動物たちを残酷なやり方で殺していくことをなくそう、というのは違う文脈だと思わざるを得ない。それをぐじゃっと同じ文脈にするのって、「ユダヤ人差別をなくすためにパレスチナ攻撃しろ」というくらい破茶滅茶な話に聞こえます。
「ヴィーガンは部落差別だ」もそうですが、最近そういった文脈をぐちゃぐちゃにする言い回しが流通しているのだろうか、という不安が沸々と湧いてきます。
あんまり話を大きくしたくはないですが、それこそシオニズムの問題はユダヤ人差別とは文脈の違うはずのアラブ系の人への攻撃を一緒にしたり、あるいは、トランス女性への差別と性犯罪などの女性差別の問題をぐちゃぐちゃにして「トランス女性は男性だから危険だ」という言い方をしたり。
全然違う文脈のものをあたかも一つのことであるように合体させ、当然どちらの問題も解決しない方向に持っていくというやり方が、他の問題でも起こってきてるのをこの1〜2年ひしひしと感じます。身近なフェミニストがトランス問題だけでなく、ヴィーガンの問題に対しても文脈を混同してしまうのだとしたらとても恐ろしさを覚えます。
やっぱり文脈の違うものをぐちゃぐちゃにして語るということは、ヘイトや差別、あるいは暴力の生み出される根本の問題の大きな一つなんじゃないかと思っています。
生田 あと事実として、被差別部落の人たちは、食肉処理を強いられてきた歴史は長かったんだけど、いま食肉処理で働いている人はすべてが被差別部落の人ではないですよね。被差別部落以外の人もかなり働いている状態なので、そこの事実も踏まえておかないといけないと思います。
栗田 事実を知ろうとしないのか、知りたくないのかわからないけれど、事実を根拠に伝えるというのはもちろん大事です。この座談会はまさにその場だとも思います。だけど、事実を伝えてその後どういう反応になるのだろう、というところまで私は心配してしまいます。
というのも、トランスのことにしても、パレスチナのことにしても、事実に関して散々いろんな人が言ってるのに、全然それを聞こうとしない人もいる。そういう怖さを私はフェミニズムの中であれ、それ以外の世界であれ感じているので、「現実はこうだよ」ということを(非当事者である)生田さんが言うっていうのはいいことなのかもしれません。現場に近い人が本当のことを言っても伝わってなかったなんていう話も聞きますので。この座談会で、立場が違う人が言うことが少しでも現実を知らせる力に繋がるなら、その力は使っていった方がいいのかなと思いました。
生田 事実を調べている学者さんも差別的なことを言うことがあるので、事実を知れば何とかなるという問題でもないけど、最低限の知識がないと駄目だということが一方であると思うんです。あと深沢さんが経験した場に、僕たちが書いた『10代に伝えたい5つの授業』があったというのはちょっとショックな話で、読んでなかったんでしょうね。せめて見出しだけでも読んで欲しかったとは思いました。
「生産者さんがかわいそう」?
――「肉を食べないってことは部落差別だ」というのと似てて、ヴィーガニズムだけでなくアニマルウェルフェアについて言うときも、「生産者がかわいそうだろう」とか、「生産者さんが職を失うだろう」とか言われたりすることがあるんですよね。
生田 たとえば環境問題で「プラスチックはなるべく使うのをやめよう」という意見があったときに、「プラスチック関連の産業で働いている人たちが困るじゃないか」という議論はほとんどなかったと思うんです。肉を食べるのを控えて、その分、野菜や果物などを食べたら、そっちの生産者のためになるから、全体としてそれでいいんじゃないでしょうか。つまり社会的な問題に応じて産業転換はできるわけで、そういった議論にならないのが不思議です。
栗田 そういう話でいったら、日本って減反政策始め、農林業や畜産業者への酷い政策はあったはずです。農家や畜産業を営んでいたが子どもに継がせるのはつらい、といった文章を時々読みますけど、ヴィーガンを敵対視してるものなんて読んだことがありません。地域の過疎化とか、地域経済をどうするかとか、そもそも労働がきついとか、そういう問題が多く出てきていると思うのですけど。
――あれですね。ヴィーガンの存在を目の前にすると、なぜか急にみんな植物の命について気になりだす現象みたいですね。
生田 あと、畜産業に関わる人も、「こういう動物の扱い方はよくないんじゃないか」と思っている人たちはいっぱいいるんだけど、国の政策があんまり進んでいかないんで、なかなか転換できないという問題もありますよね。社会全体としてアニマルウェルフェアを進めていくとか、ヴィーガンの方向に転換していくという方向に持っていった方がいいと思います。
――この件、アニマルライツセンターの岡田さんにもちょっと相談してみたんですけど、岡田さんたちも屠畜場で現場と話し合ったりもするけど、建設的に話し合いをしますよ、とおっしゃっていました。だから被差別部落の人が直接私に怒るならまだわかるんですけど、今回みたいに周囲の人が、「それは部落差別だ」というふうに怒ってくる構造が多いことに不思議さを感じています。
部落差別と天皇制
栗田 日本の感覚と仏教とのミクスチャーで肉食とか肉に触れるのを差別してたという歴史の話でいえば、奈良県では「飛鳥鍋」というのがあります——ごめんね、ヴィーガンの人にとってはいやな話なんだけど——この鍋の原型が、「昔、飛鳥時代に唐から奈良へやってきた使者が、練乳に似た乳製品を伝え、幸徳天皇へ献上したところ大変喜ばれ、乳牛が宮中で飼育されるようになった」ところから、飛鳥鍋の原型みたいのができたらしいです。この時代はまだ乳牛が宮中で飼育されるなんていうことがあったんですね。
生田 うん、チーズも作ってたしね。(700年頃に作られていた乳製品「蘇(そ)」が古代のチーズでは、と言われている)。
栗田 そうなの。だから、いわゆる部落差別を生成してるところの「肉は駄目」みたいな考え方が、まだ飛鳥時代にはそんなにはっきりもしてなかったんだな、というのがこの辺りの歴史で逆にわかる。
こういう日本の中の部落差別が問題とする肉忌避の話というのは、飛鳥鍋の原型の「なんそ」っていうチーズみたいなやつをつくるために天皇も宮中で牛飼ってました、みたいなことは、部落差別の話としてはもっと大事な話だったりするんだろうし、でも食肉の今の工場畜産が豚とか牛とか鶏に対してひどい、という話とはまたこれは違うよ、という話をして、ちゃんと話を切り分けてしていくべきなんだろうなと思います。
でも、畜産が日本から切り離されて米中心になって、それが天皇制と結びつく、という生田さんのざっとの歴史を聞くと、改めて天皇制って部落の問題と繋がってるという、ごくごくストレートなことを考えさせられました。飛鳥時代のように天皇と豪族がぐちゃぐちゃしてた時代というのは、食べるものに関する感性も米中心の天皇制とは少しずれてたんだなって。
生田 天皇制と部落問題は直結しているでしょう。「貴人」を作れば当然「賤人」が出てくるわけで。ただそれが、「コメと肉」という物質的なものに繋がってるのが日本の特徴なんでしょう。
栗田 そう。天皇制をどう捉えるかとかいう文脈でも考えなきゃいけない話なんだろうな。やっぱり部落差別に関して私は関西でぞっとしたのは、やっぱり結婚の際に問題が出てくるっていう話でした。それは確かにフェミニズムの問題とも当然繋がる話でそこは考えるべきところというのも改めてわかった。
というのは、部落差別の問題は結婚制度と戸籍制度、そして天皇制と切り離せないからです。天皇だけは戸籍を持ってない、なぜなら管理される対象じゃないから、という現実とむしろ繋がる話なんだな、と。これは部落差別の文脈として押さえなきゃいけないポイントなのかなとは思いました。
生田 天皇制と一緒で、家制度は大きなネックです。たとえば、賤民身分を廃止した1871年の「解放令」によって、法的には差別は解消したはずなんです。だけど結局その後150年以上にわたって依然として部落差別は続いていて、むしろ再生産されている。明治維新とともに近代国家や近代的な家族像が作られて、その中で「うちの家族が部落の人間と結婚して親族になるなんてとんでもない」「戸籍が汚れる」といった「家」意識に基づく差別が作られ、あるいは「部落の人間はそもそも『日本人』じゃない」(これは事実ではない)みたいなナショナリズムに基づく差別があらたに作られているという面がありましたから。
栗田 うちの祖母自身は部落の当事者じゃないんだけど、私に話してくれたことによると、部落が廃止されたって言っても、卒業証書に部落の人は「新平民」と書かれてたという話は聞いたことがある。「新平民」って書いてあったらそれはもう「部落の人」と言われてるようなもんだから、全然差別解消にはなってないという話を聞いたことがあります。
生田 解放令では「新平民」なんて言葉はないんだけど、社会一般が「あの人たちは新平民だ」と差別を継続、再生産したんですね。なので、差別って本当に社会全体を変えていかないとなかなか消えない。何しろ奈良時代から始まって、近代に再生産されてずっと続いてるわけで、本当に根深いんだなと、部落の問題を見てると思います。
栗田 私はフェミニズムとの繋がりで天皇制の問題を追いかけてきたところがありますが、やっぱり天皇制も明治の近代に塗り替えられたわけじゃないですか。そういう意味では、さっき生田さんが言ってた「貴を作れば賎を作る」じゃないけど、部落差別というものを近代で塗り替えたっていうなら、天皇制もやっぱ近代で塗り替えた、という解釈をしながら捉えないといけないんだな。
生田 そうですね。
先ほど、深沢さんと栗田さんからの「部落の問題は関東ではあんまり身近に感じられない」というのは危機感を覚えるところで、東京で意識調査をすると年々部落差別に対する一般の人の感度は悪くなってるみたいなんです。(「人権に関する都民の意識調査について」の設問「仮にあなたが同和地区の人と結婚しようとしたとき、親や親戚から強い反対を受けたら、あなたはどうしますか」に対し、2020年調査では『結婚する・計』は46.7%、『結婚しない・計』は14.7%、『わからない』は38.5%。2023年調査では『結婚する・計』は 41.7%、『結婚しない・計』は 13.4%、「わからない」は 44.8%。)
栗田 そうでしょう。でも知らないのって良くない。何かの拍子に部落の問題が取り上げられた時に全然知らないと変な情報に引っかかって陰謀論者とかになりやすいですから。
生田 なので、部落差別の問題が出たからには、われわれも改めて勉強しないといけないなと思います。
栗田 わたしはまず、天皇制があるんだから部落差別があるんだよという認識を強く持ちました。東の方でやっぱり部落が体感的に認識できないっていうけど、でも東にはなにせ天皇制そのものである皇居があるわけじゃん。地下鉄でも何でも全部、皇居を避けて街作りしてるわけじゃん。ロラン・バルトが「空虚な都市」といって、中央が空虚で円形状に東京という街が広がってる、という分析をしてるぐらいで。だからせめて「貴」を作ってるのは何なのかという問いを関東人は持つべきでしょうね。
――タブーになってしまって問題自体が語られなくなっちゃっているのかなとも感じます。中心が空になってるのって、逆に差別問題の語り自体もそうなっているのかなって。村上春樹の本でも、その言葉自体も書かれずに、中心が何なのかがわからないみたいな書かれ方をされているので、結局何が差別に当たるのかがわからない。今回のフェミニストたちも、「ヴィーガンは部落差別だ」といってわたしを黙らせただけでは、そこより先に進めないと思うんで、それをどう現実的に対処していったらいいのかを考えたいです。
部落差別も深刻ですけど、同時に、日本の屠畜場では豚や牛たちが飲み水をもらえない、屠畜前の輸送時に乱暴な扱いをされる、といった問題も現在進行形であるわけなので、それらの問題をどうやって改善していくかということは、部落差別とは別の話として進められるはずだと思うんです。そのへんは丁寧に言っていくしかないのかな、という気はします。
【屠畜の段階・屠畜施設におけるアニマルウェルフェアの問題】
WOAH(国際獣疫事務局、旧OIE)は2005年には「動物の屠畜」という動物福祉規約を策定しており、日本も批准しているはずだが、日本における屠畜場ではその基準に反する行為が広く行われている。
たとえば、WOAHの規約の「屠畜」の章には、「哺乳動物を屠畜場に搬入後、すぐに屠畜しない場合は給水されなければならない」という規定があるが、日本の屠畜場には、前日に搬入され次の日の屠畜までの長時間、喉の渇きに耐えながら係留されている動物たちが多数存在する。北海道帯広食肉衛生検査所らが2010-2011年に実施した「と畜場の繋留所における家畜の飲用水設備の設置状況」調査によると、日本の屠畜場における豚・牛の飲水状況は、牛屠畜場では50.4%が飲水設備無し、豚屠畜場では86.4%が飲水設備無し、という結果であった。
*参考
・「と畜場の繋留所における家畜の飲用水設備の設置状況」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvma/66/12/66_875/_article/-char/ja/
屠畜業への差別は日本だけ?
――屠畜業への差別は、日本独特のものなんですか?
生田 そう思いますね。北海道・沖縄・韓国・中国では、そういった事例はまず聞かないですから。『世界屠畜紀行』を読んでもそんな話出てこなかったしね。
※ 2024/11/1 生田追記
「不浄とされる職業への差別は日本特有ではありません」という指摘がありました(現在は本人により削除)。確かに、ぼくのこの発言は不正確なので、補足します。
韓国、インドなどでも近代以前に食肉処理と身分差別が結びつけられてきた歴史があります。
「白丁は、朝鮮半島の被差別民である。彼らは屠畜や精肉業、皮革加工、柳細工の制作販売などを生業にして生きてきた。高麗時代に楊水尺・禾尺とよばれ、その後朝鮮王朝時代になると白丁とよばれ一般の人々から強い差別を受けるようになった。朝鮮王朝時代、最下層にあった被差別民といわれている。1894年の甲午改革で法的には身分解放が行われたが、その後も社会のなかでの差別は強く存在し続けた」
「一般に「白丁の差別は現在は存在しない」といわれる韓国において、済州島では、食肉業者への差別が、白丁差別を引き継ぎ、現在でも潜在的に強くあり深刻であることもわかった」
網野房子「朝鮮半島の被差別民・白丁をめぐる覚書ー韓国現地調査から」
https://senshu-u.repo.nii.ac.jp/record/7122/files/3061_0262_03.pdf
「(インドでは)、家畜を屠殺、解体し食肉を市場へ提供する職業に従事する人達をカーストの最下位、またはカースト外の「ダリット」と呼び、人間扱いされない差別社会が存在する」
鈴木達行「インドの畜産事情」
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2030742409.pdf
このように、各国で日本と似た問題があるようです。
一方、伝統畜産と現代畜産の問題は分けて考えた方がいいと思いますが、現代畜産での職業差別は各国で存在します。
アメリカでは、アメリカ人の多くが就きたがらない食肉処理の仕事を移民が担うケースがたびたび報道されています。日本でも、「3K(きつい、危険、汚い)」と言われる仕事が外国人労働者に押し付けられている問題が指摘されています。
動物を解体処理する仕事は「3K(きつい、危険、汚い)」で、職業差別と人種差別、学歴差別などが一体化しているはずです。
——森達也が『いのちの食べかた』の中で、「世界にはいろいろな差別問題があるが、それらに共通するのは宗教や民族などの”違い”が差別の理由になっていること。一方、日本に残る部落差別は、”場所”と”血筋”を理由にしている」ということ言っているのですが、やはりそういう部分が大きいのでしょうか?
生田 例えば京都でいうと河原が皮革業に便利なので、河原にみんな住むじゃないですか。それで「河原者」と呼ばれるとか、一定の場所に集中して住まわせられて、そこの場所が差別されるという流れがあったようです。ただ、「えた・ひにん」という言い方ですが、「ひにん」は物乞いや物拾いをやってたりする人なんです。だから貧困層の人たちもいて、あとハンセン氏病の人とか、いろんな人たちが差別を受けていた。ただ、職業差別としては食肉解体と皮革業の人が多かったみたいです。
それで言うと、昔は僕は「士農工商・えた・ひにん」と教わったけど、みなさんはどうでした?
——そう教わりました。
栗田 私もそうだった。
生田 あれは不正確ということでも、もう教科書に載っていないんです。たとえば、武士は支配階級でしたが、「農工商」には序列はなかったようです。『入門被差別部落の歴史』(寺木伸明+黒川みどり 解放出版社2016)によると、「従来、江戸時代の身分序列について『士農工商・えた・ひにん』という図式が使われていました。しかし現在では、その図式は現在では問題あるとして、小学校・中学校の教科書でも、『士農工商』の部分は『百姓町人』と表記されるようになってきています。筆者も「天皇―公家・武士―百姓・町人―被差別身分」と表記しました」ということです。
栗田 そうか、確かに百姓という言葉はいろんな仕事をやっている人を指すので、それとは違う町人、という社会的な位相がある感じかな。
生田 そして、「えた・ひにん」という言葉だけではくくれない多様な差別があったので、教科書で使われなくなったみたいです。ただ、被差別部落にいる人たちは、主に当時「えた」と言われた人たち、つまり食肉解体や皮革業の人たちのようです。
栗田 そうだよね。日本の差別の中では、演劇をやってる人たちも百姓という階級からは外されるわけだもんね。あと時代劇で出てくる、十手を持っているいわゆる”岡っ引き”も、武士階級でもないし、百姓でもないし、差別される階級だと聞いたことがある。
生田 そうなんだ。
栗田 だから、我々が習ったときのような区分は雑ということだよね。
生田 そうですね。ただ、食肉処理や皮革業に関わる人たちが差別されることが延々と今でも続いてるということは事実ですよね。指を4本見せるのも動物が4本の脚だというところからくるわけだし。
栗田 あの仕草を実際に見たときの震えは忘れられない。
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