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動物問題と部落差別(序)①ヴィーガンは部落差別?

ヴィーガンである深沢が、先日あるフェミニズムのイベントで動物問題について発言したところ、2人のフェミニストから「ヴィーガンは部落差別だ」と激しく批判される出来事がありました。ヴィーガニズムを広めることや、動物の置かれた現状を改善することは本当に部落差別なのか? 日本の肉食禁止と差別の歴史を振り返り、天皇制と部落差別の関係、フェミニズムの加害性にまで踏み込み、動物問題と部落差別のあり方をレギュラーメンバー3人で考えました。

 【参加者(レギュラーメンバー)】
司会:深沢レナ(大学のハラスメントを看過しない会代表、詩人、ヴィーガン)
生田武志(野宿者ネットワーク代表、文芸評論家、フレキシタリアン)
栗田隆子(フェミニスト、文筆家、「働く女性の全国センター」元代表、ノン・ヴィーガン)

座談会実施日:2024年9月17日
(※今回は映像はなく、記事のみの公開となります)



※  部落問題について考えるにあたり、当事者の方をお呼びすることも考えましたが、都合がつかず叶いませんでした。そのため、当事者なしで語ることの危険性を考慮しつつも、今回はレギュラーメンバーの3人でできるところまで議論をしました。ご了承ください。


ヴィーガンは特権?


――まずはじめに今回の座談会の趣旨について、わたしから説明させていただきます。先週、「社会運動におけるヴィーガン排除について——あるフェミニズムのイベントに行ったヴィーガンの記録」という記事を公開しました。記事の中で詳しく書いていますが、先日私がフェミニズムのあるイベントに行って、動物問題について提起したら、2人のフェミニストから激しく批判されたということがありました。

以前、私達の座談会では、「ヴィーガン・ベジタリアンの人権」ということでアンケート調査を行い、日常生活の中でヴィーガン・ベジタリアンがどういう困難や不自由を体験しているかを紹介したんですけど、今回は、ヴィーガンへのよくある批判についてよりフォーカスしていきたいと思っています。

今回、そのフェミニストの方々に言われたことはいろいろあるんですけど、内容としてはだいたいこんなところです。

• 「肉を食べない、ということは、部落の人たちを差別することそのものだ」
• 「彼らは誇りを持って仕事をしている」
• 「わたしたちは肉を食べることで差別されている人たちを支えているんだ」
• 「”アニマルウェルフェアがひどい”などと言って責められるのは生産者」
• 「肉を食べるのは文化だ」
• 「ヴィーガンは特権」

この中で、まず、「ヴィーガンは特権だ」ということについては、私から簡単に反論しておきます。

ヴィーガンというと、セレブのものキラキラしたものおしゃれなものというイメージが流布している部分もありますが、私達の座談会や記事では、キラキラしていないヴィーガンもいるよ、ということをこれまで説明してきました。

この点に関しては、YouTubeで発信しているヴィーガンの朋也さんも、「ヴィーガンは富裕層の娯楽」だということを言われてて、彼は動画の中で「自分は手取り15万円で、妻もいて、子供もいて、猫もいて、決して富裕層ではないよ」ということを説明しています。以前、私達の座談会でも、「ヴィーガン・ベジタリアンの食費っていくらですか?」と聞かれて、私達も大体2〜3万円、ASの黒瀬さんは月1万5000円に抑えている、と話しました。なので、ヴィーガンがみんな金持ちなわけではないし、頑張って倹約している人もいるのですが、こういうふうに食費とか年収といったプライベートまで公にしないとなかなか信じてもらえないということ自体、何なのかな、と思っています。

また、ヴィーガンは日常生活でもかなり苦労している部分があります。先日「日本の大手飲食店におけるヴィーガン対応調査」という記事も挙げたのですが、これは日本のメジャーな飲食店にヴィーガン対応メニューがあるかどうか問い合わせたところ、9割方ないんですね。だから、ヴィーガンの人は、お腹が減ってもなかなか外で気軽に外食できないし、安い飲食店やスーパーの惣菜でも食べるものが見つからない、ということはざらにあるのですが、こういう苦労の部分というのも意外と知られていないのではないかと思います。

また、これは前から紹介していますが、「ヴィーガン・ベジタリアン嫌悪症」というものがあって、これは日本に関わらずあるようです。ヴィーガンというと、半数以上の人がネガティブなイメージを持っていて、ドラッグ中毒者と同じくらいの悪いイメージを持つ、という調査結果も出ています。

とりあえず、「ヴィーガンは特権」という点について私からざっと考えをお伝えさせていただいたんですが、私は部落の問題に関しても、動物の扱いを考えることと、部落差別を改善していくことは対立しないんじゃないかと考えています。こういった点について、今日は3人でぜひ議論を深めていきたいと思っています。



なぜ社会運動内でもヴィーガニズムが受け入れられないのか?


――栗田さん、フェミニストとして何かご意見はありますか?

栗田 私は正直、ヴィーガンについて最初に関心を持ったのは、アニマルライツとかアニマルウェルフェア、あるいはヴィーガンそのものに関心を持ったというより、それらへの嫌悪のあり方(ヴィーガフォビア)とアンチフェミの人たちの反応が似てる、と思ったことが大きかった。私自身も「フェミニズムがエリートの女性だけのものじゃいけない」という言い方をしたことがあるのだけど、アンチフェミニストたちのなかで「どうせフェミなんて女性たちのことをちゃんと捉えてるわけじゃないんだ」とか、「一部の女性たちの特権的なものなんだ」みたいな言い方で自分たちの主張を正当化する人たちもいます。

正直「ヴィーガンは特権」というイメージを私も最初は持っていました。

というのは、この座談会で私も言ってきたんだけど、ヴィーガンというとブリジット・バルドーのような白人の有名人に焦点が当たって知られてきたと思うから。今だったらホアキン・フェニックスがヴィーガンだとか有名人経由で知られることが多い。でもそれはフェミニズムで言うと、「上野千鶴子しかフェミニストを知らない」くらいの感覚と一緒になってしまう。フェミニストは上野千鶴子だけじゃないのはフェミニストであればみんなわかっているはずなのに、ヴィーガンは金持ちだけじゃないという事実を理解しようとしないのであれば不思議な話です。

フェミニストにもヴィーガンも有名じゃない人はいる。ヴィーガンだったりフェミニストで目立つ人がなぜ、社会的地位の高い大学教授とか俳優ばかりなのかを考える際には、メディアにアクセスできるのは誰かという階級や社会の権力構造も問題視しなければいけない。つまりヴィーガンにしてもフェミにしても、そもそも社会的権力のある人が認識されやすいという焦点の当てられ方の問題があることをまずちゃんと認識しないと、「あの人たちは特権があるから(フェミニストやヴィーガンになれるの)だ」という言い回しに振り回されやすくなるのではないかな。

生田 「ヴィーガンが特権階級だ」というのはよくわからない話なんです。というのも、僕も肉食を抑えているからわかるんですけど、ほとんど外食できなくなっちゃうじゃないですか。そうするとほぼ自炊になるので、食費はかなり安くなるんです。そういう意味ではヴィーガン・ベジタリアンの方が貧困層にとって、経済的にはむしろ受け入れられやすいんじゃないかと思うこともあります。

あと、ヴィーガンにお金持ちが多いっていうのもある種の思い込みなんですが、それを裏返すと、「生活困窮者や野宿の人にはベジタリアンやヴィーガンはいないはずだ」という思い込みにもなりかねないんですよ。でもそんなことないわけで、経済的な問題とヴィーガン・ベジタリアンの問題は全く別じゃないかと思います。だからそれを言うこと自体に偏見を感じるというのが実感です。

栗田 いちむらみさこさんと小川てつオさんが主催してる「エノアール」という物物交換カフェに出入りしてる人たちのなかに、お金持ちとは言い難いヴィーガン・ベジタリアンの方に出会ってます。やっぱりマスメディアなどを通して見えているものだけで判断しがちなのではと思えてなりません。

深沢さんが台湾旅行でヴィーガン食がいっぱいあったことを記事に書いていたけど、それらを食べている人がみんな金持ちなのかといったら、おそらく違うはずですよね。それこそ今、香港、中国、韓国でフェミニストが活躍している中で、同時にヴィーガンの率も高くなっている感覚がある。そのほかアメリカなどの国に行く中で、ヴィーガンとフェミニズムを対立して話は聞いたことがありません。実際、アメリカやカナダなどの海外の労働問題に関する集会ではヴィーガンメニューも提供されてました。

——わたしは今までいろいろなフェミニストに接してきた中で、栗田さんみたいに「畜産の問題ってもろリプロダクション・ライツの問題と繋がってるよね」とスーッと入っていってくれる人と、「動物の問題はフェミニズムとは全然違います」とまったく通じない人というパターンがあるなと感じるんですが、そこの違いは何かわかりますか?

栗田 まず日本の場合、ヴィーガンに限らず、例えば能力主義の話をした際に「日本では女性の能力すら認められていないから、能力主義を批判するようなところにまで至ってないよ」って言われたりすることが多いです。「まだこの問題も解決してないのにそんなところまで考えきれないよ」といったリアクションは割と多い感触があります。それは例えば、「非正規労働の問題が解決してないのに、いきなり動物の問題にまで至れないよ」と言った言い回しでもありえそうですし、いろいろなイシューに置き換えられると思いますが。

15年ほど前に「仕事が怖い」とか「仕事が嫌だ」という話をしだしたときにも、年上のフェミニストたちに「自分の労働運動の努力が無にされた」「自分たちは働く権利を主張してきたのに、あなたたちみたいなことを言い出したら自分たちのやってきたことが台無しになるじゃないか」と言われたことがあります。違う視点を持ち込んだり、話を広げようとしたときに、「自分たちがずっと抱えてきた問題も解決してないのに、そんな問題なんて考えられない」という抵抗感は日本のフェミニストたちの中に割と根強くあるのかなと感じます。

でも、だからと言ってヴィーガンであるとか、能力主義の話であるとか、働くのが怖い、といった話を否定することで、女性の働く権利を確保するといった問題が解決するわけでもない。それなのに、なぜかそういう話の論調になるのかは、私が10〜20年近くフェミニズム界隈にいて何となく感じてきたことではあります。

――生田さんたちがこの前出版された『10代に届けたい5つの授業』では、異なる5つの社会問題をについて論じられているじゃないですか。この本に動物の問題を入れることについて、対立が生じたりしましたか?

生田 いや、全く生じてないです。発案者が僕だったので、そもそも動物問題も入れるということが前提になっていたということはあります。配信の『10代に届けたい5つの授業』は「ジェンダー・不登校・外国人・貧困・動物」(書籍は「外国人」に代わって「障害」)だったけど、例えば不登校の問題をやっている山下耕平さんも、以前僕を呼んで動物問題のレクチャーを開いたりしているし、あと性的マイノリティの問題を扱った方もベジタリアン・ヴィーガンだったりして、みなさん、かなりアンテナが高かったと思うんです。だから打ち上げで「ヴィーガン料理がある店に行きましょう」と言っても誰も反対しないし、すんなりいった感じです。



「肉を食べないことは部落差別」?――部落問題への関東・関西の向き合い方の違い


――今振り返ると、「肉を食べないということは、部落の人を差別することそのものだ」という主張はかなり乱暴だなと感じるのですが、お二人はどう思われますか?

栗田 そもそも部落差別の問題って、動物の皮をなめすとか、精肉処理をしていく仕事を低いものだとする大きな枠組みを作ってしまってるわけですよね。まず私が部落差別のことを実感として知ったのは、関西に行ってからでした。

もちろん関東の中にも部落差別ってあるんだけど、関西の方が、部落差別に対する人権教育を小学校の頃から受けてるよという話をよく聞いたんですね。。

あと、00年代前半に大阪市がかつて運営を支えていた人権博物館に3回ほど足を運んだことがあります。そこでかなり概略的ではありますが部落差別について学ぶことができた。

当たり前ですけど、それこそ部落差別があるのを否定する気はまったくない。2000年当時、部落とかつて位置付けられてきた地域の駅に降りたら、コンビニ一つなかった。そして太鼓を売ってるお店がひとつぽつんとあって、明らかにその沿線の他の駅と雰囲気が違い、「どういうことだろう」と感じました。街作りというレベルの差別は非常に衝撃を受けました。だから「部落差別がない」なんて話をするわけない、ということは誤解なきよう伝えておかなきゃいけない。

ただ、「動物の肉を食べる/食べない」という行為を部落差別と結びつけることこそ、むしろ部落差別をよしとする人たちの思惑というか。食肉生産に携わる人が「自分は誇りを持つ仕事をしてるんだ」と言うのはわかりますが(食肉生産に携わっていない)わたしたちが、彼らの誇りとかプライドを根拠に、「肉を食べるのは良い/悪い」と発言するのは違うのではないかという違和感はある。そもそもヴィーガンが肉を食べない意味と部落差別を良しとしてきたしてきた文脈は違うじゃないですか。違う文脈のことを同じ文脈で語ることこそがまさに暴力的な問題になりかねやしないでしょうか。確かに私が部落問題の当事者とは言い難いですし、ノンヴィーガンという中途半端もいいところの立場ですが、それにしてももうちょっと文脈をちゃんと整理して語るべきじゃないか、と思って今日は座談会に参加しました。

——私は90年生まれで、ずっと関東に住んでいたんですけど、「ヴィーガンは部落差別だ」とはっきりと面と向かって言われたときに、答えられなくなってしまって。部落問題って、動物の運動をやっている活動家で頭に入れてない人はほぼいないとは思うんですけど、正直なところ、実感としてまったくわからないまま育ってきた。もちろん部落差別というものがずっと日本にはあったんだという漠然とした事実を知ってはいる。教科書で「えた・ひにん」って言葉を習ったりして、それだけは覚えるけれども、それ以上のことが何もわかっていない。話題にすること自体がタブーとされてしまっていて、逆にどういう差別があったのか具体的なことが全然わからなかった。

部落差別が現在も残ってるということを私が具体的に知ったのは、村上春樹のエッセイ集です。昔、学生時代の春樹が、何か知らない言葉を耳にして、特に意味もなくその言葉を学校の黒板に書いてしまった(※部落の蔑称とのことだが、その言葉自体は本では明かされていない)。そしたら部落出身のクラスメートの女の子がその言葉を見て、泣いて出ていってしまった、という話を読んで、「そういうことがまだあるんだな」と知ったというのが最初です(「僕らの世代はそれほどひどい世代じゃなかったと思う」『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』新潮社、1997)。

あと、動物の問題を調べていくうちにつれて、森達也の『いのちの食べかた』で部落問題について書かれているのも読みました。それと、『被差別部落の青春』という、部落出身の方のエピソードをまとめた本を読んだりして、現代生きてる中でどういう影響があるのかを漠然と知ったのですが、実際には知らないのが正直なところなので、「わたしは知らないから何も言えない」というふうになってしまったんですよね。

生田さんは関西に長く住まわれてますけど、部落問題との関わり方というのは、どういうとこから入られましたか?

生田 関東と関西でかなり違うのは確かなんですね。僕は小学3年から岡山県にいたんだけど、高校のとき同和問題の授業があって、クラスで討論やったりするんです。副読本もくばられていて、僕はそれを読んで「これはとてもいい本だ」と感動した覚えがあります。その延長で、同和問題についての県の高校生大会に行った事もあります。実際、岡山には大きな被差別部落があって、僕の同級生もその地区出身の女性と結婚しています。

大学から京都に行って、その後釜ヶ崎に行ったわけだけど、やっぱり大阪に行くと被差別部落が巨大だし、差別問題も極めて深刻なんです。釜ヶ崎の越冬闘争で、闘争に参加している労働者から部落について指を4本出す形の差別発言があって、越冬闘争実行委員会でその問題について議論して検証していくということもありました。

それから、府立西成高校は今は「反貧困学習」で有名だけど、もともと反差別・解放教育に取り組んでいたんです。ただ、生徒たちの生活で貧困の問題がだんだん大きくなってきて、「反貧困学習」にシフトしていきました。そういった感じで被差別部落に関わる問題は常にあるし、当事者もいっぱいいる。実際の僕の住んでる周りは靴屋さんが多いんですが、それは皮革業からきています。

解放運動が進んで、事態がかなり改善されてきたことは間違いないと思うんですね。被差別部落の成立以来、ひどい差別が日本の歴史の中で延々と続いてきましたが、当事者運動を中心とする大変な努力によって、解決に向かってきたことは確かだと思います。けれども、今年も大阪市職員2 人が同僚職員数人を指して「えた」などと言って、「子どもが結婚するときはシビアになる」「部落地名総鑑で調べる」などの差別発言をして大問題になりました。いまだに、信じられないような差別発言が飛び出すんです。

* 2024年7月2日 部落解放同盟大阪府連合会 「大阪市職員の極めて悪質な部落差別発言に対し断固抗議する声明」
http://www.hrn.gr.jp/wp-content/uploads/2024/07/0e3650b9bf3022c1614679c5d0f9e7e5.pdf
* 2024年8月 大阪市長の表明
https://www.city.osaka.lg.jp/shimin/cmsfiles/contents/0000634/634414/message.pdf

よく、多くの人は普段はそれほど被差別部落の問題を意識しないんだけど、就職や結婚という人生の転機になると差別意識が現れると言われます。自分の身内が被差別部落出身の人と結婚するとなると、突然態度を変える人が多いんです。例えば、すごく日本的な発想だけど、「私はそんなに差別とか思わないけど、周りに迷惑がかかるからね」という言い方で、結婚に反対するというパターンです。

全体としては、部落問題は少しずつ解決に向かっているんだけど、気になるのは、解放教育、同和教育があまり行なわれなくなっているようなんです。西成高校で「解放教育」が「反貧困学習」に変わってきたように、だんだん直接に部落問題を学ぶ機会が減ってきている。だから、大阪でも、最近教員になった若い先生はあんまり部落問題について学んでいなくて、差別事件が起こっても、そもそも知識がないので対応できない、ということが問題になってきたりしています。依然として差別は続いているけど、それに対する取り組みが薄れてきてるのかな、という危機感を僕は持っています。

それを前提にして話しますが、まず、「肉を食べないことは被差別部落の人に対する差別に繋がる」というのはまったくの詭弁だと思います。例えば、ゴミ掃除をしている人は差別の対象になることがあります。僕は以前、釜ヶ崎で55歳以上の日雇い労働者や野宿の人が行なう「特別清掃事業」に指導員として入っていて、生ゴミとかで汚れながら道路を掃除していました。そしたら、通りかかった女性が「汚いなあ。あんた、若いのにこんな仕事しかないんかいな」と言ってきて、かなりむかついたことがあります。

でも、例えば「ゴミをむやみに出すのはよくない。環境のためにゴミを減らしていきましょう」という話が出たとき、「それは清掃業の人に対する差別だ」なんて誰も言わないと思うんですよ。もちろん、ゴミと肉食、清掃と食肉解体は別の問題ですが、「肉を食べないことは部落の人に対する差別だ」というのは、それと同じぐらいまったく意味がない詭弁だと思うんです。それを言い出すのはなぜなのか、とても疑問です。おそらく部落差別の問題を、ヴィーガン否定に利用しているだけではないでしょうか。そうだとすれば、非常に悪質だと思うんです。


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