「キューティーズ!」を巡る議論に参加する。
NETFLIXオリジナル映画「キューティーズ!」に対する小さくない反駁がにわかに広がっていたので、議論に参加したいと思う。
フランス映画であるこの作品は、イスラームの家系に育つ11歳の少女アミが主人公のヒューマンドラマである。女性の自己表現を嫌う保守的な思想が当たり前であったアミは、学校で女性ダンスグループに出会い、異世界を知る。自分を目一杯表現する彼女ら、そしてダンスに魅了され、家族や親戚には隠してダンスの練習を始める。特に、セクシャルなダンスに執着に似た関心をもち、そのダンスで大会に出場する。(ここに至るまでに様々ないざこざがあるのだが、今回の議論では扱わないので割愛。)
さて、この映画が反発を呼んだ原因は、ひとえに〝少女による性表現〟である。
映画版のポスターのカットとは違い、NETFLIX版のポスターが映画内の少女達によるダンスパフォーマンスのカット(ホットパンツで尻を突き出す挑発的な振り付け部分)であったことに対し、「小児性愛者」が喜ぶといった批判が上がり、「#Cancel Netflix」運動が広がり、解約を求めるネット署目がなんと60万も集まったというのだ。
僕は、この騒動に疑問を感じる。確かに、問題とされるポスターは目を見張るものであったし、「小児性愛者」が喜ぶことは否定できない。しかし、ポスターが映画の中身を象徴するという前提に立てば、むしろNetflix版のポスターが正しいと言えるだろう。
映画版ポスターは確かに見栄えがいいものだが、作品との齟齬を感じざるをえない。なぜなら、この映画のテーマは明らかに青春物語ではないからだ。もし「キューティーズ!」が日本でいうダンス甲子園を目指す中高生の青春を描いた映画であったら、映画版ポスターで異論はないだろう。ただ、この映画の主題は明らかに、‘ 伝統的価値観からの脱却’である。映画には印象的な初潮のシーンがあるが、アミがダンス大会のオーディションにいけず、仲間を裏切ってしまった後ににそれを迎えたことが主題を象徴していると思う。イスラームにとって初潮はやはり象徴的な出来事であり(もちろん日本でも赤飯炊きという文化がある。)、性別分業の下女性としての役割がより明確になる。アミは少女から女性になり、女性としての振るまい(=女性がすべきとされている仕事)を求められるが、伝統的価値観からの脱却を試み、ダンスを選択したのだ。
そのような主題の中、むしろ映画ファンは映画版のポスターを批判することの方が生産的ではないだろうか。〝ポイント稼ぎ〟にも映る綺麗なポスターの方がこの映画に不格好であり、世間知らずの少女が醸し出す挑戦的なあのポーズと表情こそが、この映画の主題を含有する一瞬であると思う。
恐らく、議論に油をそそぐ人達は例に漏れず外野の方が多いのであろう。〝当事者でないのなら語るな〟とは言わないが、このような騒がせ屋達のノイズに妥協し続けることは、Netflixのクオリティを下げさせかねないし、何よりも「キューティーズ!」で描かれる思春期を否定することになる。誰だって思春期を迎えると、ませた行動を取り、気障なセリフに浸るものだ。アミ達の表現を否定することはリアリティを否定することになるし、フランスという文化の国からそのような表現が敬遠されていくことを危惧している。