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肩書

人には皆、ある程度肩書と言うものがあると思います。
例えば、「大卒」というのもある種の肩書です。国内で言えば勿論、「東大卒」が大卒の肩書の中では最強になります。
自閉症は一般的にスペクトラムだと言われていますが、この肩書に関しては白黒どちらかな人が多い気がします。白黒というのは、好きすぎて以上に固執する人と、全く拘らない人という軸になります。
今日はそんな肩書に関する私の考え方とか、何故肩書に固執し過ぎてしまう人が居ると私が考えているのか、まとめていければ良いと思って書いていきます。

私自身の思想

前述の通り、私自身は肩書については極めてどうでも良いものだと思っています。ただ、話の内容が面白い人の多くが、有名な大学を出ているということが、割合的には多いと言う事は事実だとも思っています。
これについても割と簡単に説得力のある説明が出来ると思っていて、そもそも話すというアウトプットをするには、話の内容に関することを事前にインプットしておく必要があります。ニュースを見たり、本を読んだり、物事について考えたり、といったことですね。
ここで大事なことは、人は同じニュースを見て、本を読んでも、同じように物事を認知・認識するとは限らないということです。例えばニュースの時事ネタ内容を本質的に理解するには、その時の世界情勢に関する知識や事前の教養が必要になってきます。その事前の知識量や理解力、思考力の差は1個のニュースを見る遥か前から積み上げてあったものであって、一朝一夕にそのニュースを見れば全て理解できるわけではありません。
そして、生まれてから全ての積み上げたインプットが全て噛み合っている人は、そのニュース1つで更に質の高いインプットを得て、より質の高いアウトプットを実行することが出来ると考えています。

学校の勉強、例えば、教科書には1から10のことが書いてあります。
基本的に全ての生徒が1から10を学びますが、全ての生徒が1から10を認知・認識し、理解するとは限りません。テストを行えば、そんなことは明白です。
そして、高い質のインプットを行うことが出来る生徒は1から10を学んだうえで15や20を理解し、テストで良い点を取り、良い肩書を手に入れやすい。
結果的に、良いアウトプットが出来る人は、良いインプットを行えて、良い肩書を持っている可能性が高くなりがちである。というのが私の基本的な考え方です。

ただ、ここで重要なのは、先ず「今」良いアウトプットが出来ている状態であるのか?ということです。
ぶっちゃけ、「今」のアウトプットさえ良ければ、過去が良かろうが悪かろうが、それはただの過去の1ページに過ぎません。話が面白い人が居て、その話の内容の中で出身校が、それこそ中卒だとしても、その人の「今」の評価が落ちることはありません
寧ろそこで名の通った大学が出てくれば、評価が上がるのは大学の方です。

逆に言えば、話がクソつまらない人が居たとすれば、その人の肩書にある学校名の評価は当然下がりますよね。
大学絡みやその関係者の警察沙汰があれば、~~大学は犯罪者予備軍しかいないみたいなことを言われるのは、至極真っ当で当然のことだと考えています。

肩書が好きすぎる自閉症

自閉症の中には、本当に、本っっっっ当に肩書が好きな人が居ます。居ますと言うよりは、多いような気がしています。そして、その殆どが極端なアスペルガー症候群の男性だと、私は感じています。
大卒という肩書だけでなく、例えば、彼女が居る/居ない、年収が幾らだ、とか、とにかくありとあらゆる肩書を集めたくて仕方ないんじゃないかってくらい、収集癖があるかのように肩書を集めたい人が居ます。

皆さんももしかしたら、学校生活の中でこんな人が居た記憶があるのではないでしょうか。
班やクラスのリーダーにやたら立候補したがる人
そして、
リーダーの指示なんだから従うのが当たり前でしょ、と発言する人。
学級委員とか班長みたいな肩書がつけば、神にでもなれると考えているのでしょうか。

勿論クラスの中で成績優秀、品行方正、誰にでも分け隔てなく接し、普段から信頼を得ている人物にそういう肩書がつけば、多くの人は彼の背中についていくと思います。ですが、そういう人には肩書が無くてもついていくものではないでしょうか。

人は何に従う?

人は何に従うのか、そのことについて初めて私が真剣に考えたのは、2009年のことです。きっかけは、ルー・ホルツというアメリカンフットボールに於ける伝説のヘッドコーチの来日スピーチですね。正しく肩書と、そしてリーダーの条件とは何かと言う内容のお話でした。
話の内容を滅茶苦茶簡単に言うと、
人は本質的には肩書には従いません。あなたが仮に明日からいきなり大企業の社長になっても、その時点で部下は、誰1人としてあなたを上司だなんて思っていません。リーダーとして人を動かしたいのであれば、先ず信頼を得なければなりません。そして信頼を得るには、5つのことを守り、弛まぬ努力を続け、常に組織全体の成功を最優先することです。5つのこととは、「常に楽観的であること」「先に自分が相手を信じること」「誠実であること」「言いにくいこともはっきりと言うこと」「勝利への執念を燃やし続けること」です。

例えば、態度がデカイ、嫌な上司に何か指示されたとして、大体の人は嫌々従うことになると思いますが、その上司の方が何かしらの理由で肩書から外された時、その方の指示を今後快く引き受けるという方は居ると思いますか?
逆に、普段から面倒見が良く、誰に対しても誠実に接していた上司が、たまたま仕事で大きな失敗してしまったとして、その方との関係が上司と部下でなく、同僚になったとして、その同僚が業務過多で困っている時、あなたならどうしますか?

確かに人は、肩書に従うのかもしれません。でも、その肩書が魅力的でなくなった時、効果的でなくなった時、それを失った人は、誰も従わせることは出来ないしと思いますし、そもそも従わせるという発想自体が間違いであるように感じます。

何故肩書で飾りたがるのか

自閉症の話に戻りますが、自閉症には「目で見えるものしか見えない」と言う特性があります。空気みたいな無色透明なものは勿論、自分の視界に入らない自分自身についても見えていないから、自己を客観視して認識することを苦手としている人が多いという話を以前から何度かしています。
自己を認識することが苦手・出来ないから、分かりやすく他者を見て、例えば、彼女が居ない男性より、居る男性の方が優れている。年収は、少ないより多い方が優れている。主任より課長、課長より部長の方が優れている。
つまるところ、彼女が居て、年収が多く、良い役職についている人間は優れていて、そうでない人間は優れていない。
自己を認識できず、最近の流行り言葉でいう所の「自分軸」というものを確立できないから、どうしても「他人軸」で物事を考え、かつ他人に対してその自分が構築した他人軸を同調圧力で押し付けてしまう。
そもそも、それが独りよがりの他人軸であること自体を認識することが出来ないのも大きな問題で、自分が他人からの同調圧力を嫌うくせに、他人に押し付けてしまっていることに気付けないし、アスペルガー型特有の、自分が正しいと思い込みすぎる特性も、それを助長しているような気がしています。

そもそも君子は、内心を取り上げて外形のほうは捨て去り、実質を好んで装飾のほうは嫌う。あの外見の形に頼って内心を論ずるのは、その内心が悪いからであり、装飾を頼りにして実質を論ずるのは、その実質がダメだからである。
どうしてそう言えるのか?
和氏の壁ほどの名玉は5色で飾ったりはしないし、随侯の珠ほどの名珠は金銀で飾ったりはしない。その実質が最高に立派であるから、何物でもそれ以上に飾りたてることはできないのである。
そもそも、装飾を加えてはじめて人前に出られるような物は、その実質が立派でないのだ。

韓非子

哲学について散々書いてきて今更ですが、今回は中国の思想化の考え方になります。韓非は、矛盾と言う言葉を創り、逆鱗の語源になった人です。
要約すると、
本当に価値のあるものは、それ以上飾る必要が無い
ということです。

自己を認識出来なければ、自己を肯定することが出来ないので、自己の価値を認識するために、どうしても自分を飾るための肩書が欲しい。となってしまうのかもしれませんが、秦の礎を築いた思想家からすれば、そこを求め続ける限り、どこまで行っても本質的な価値のない人間であるということなのかもしれません。
ただそれが、脳の特性上、本能的に行ってしまう行為であるなら、やはり自閉症と言う存在そのものが、社会にとっては無価値に近い存在なのでしょう。ハンス・アスペルガーの正しさが良く分かりますね。

それでも日本人は肩書が好き?

昨今の統一教会の問題を見ていれば、基本的に日本人は、強力な肩書が好きなのだろうと思います。史上最も長い期間の内閣総理大臣経験者という強力過ぎる肩書を持った人が認める存在に、多くの迷える子羊は従っているのですから。
一方で、現職の内閣総理大臣と言う肩書は、あまり強力ではないのかもしれません。増税の話をしたら、多くの人が、そこに従いたくない、ついていきたくないという意思を示しています。
もし彼が、日本のリーダーとして、肩書の有無に関係無く、長い間日本のために貢献してきたと誰もが認める人物であれば、国民の負担を強いることになって申し訳ない気持ちはあるが、今一度国のために増税に踏み切らせていただきたい。となった時に、多くの人が、国のためには仕方ないことと思って、その背中についていくのではないでしょうか。
そう考えると、肩書の問題ではなく、今の現職の総理大臣の一挙手一投足を見て、我々のリーダーとして相応しくないと、多くの人が考えているのかもしれません。
もしかしたら、あの暗殺事件を経て、肩書なんて要らないと思う人が増えたのかもしれませんね。

ありのまま、飾らない

肩書が必要ないと思っている私は、もう飾る意思も何もありません。
それでも、そんな私を慕ってくれる人は居て、そういう人に少しでも笑顔を届けられるような余生を過ごせれば、それだけで幸せだと思っています。

名声をこよなく愛する者は、幸福は自分を称賛する他人の言動にあると考える。
快楽に身をまかせる者は、幸福は自分の感覚を通してやってくるものと考える。
叡智を身につけた人は、幸福は自分の行動にあると考える。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

ストイシズムを実践していれば、これはごく自然なことです。そして仏教哲学の影響も受けた私の場合、苦しみもまた、自分の行動にあります。
それらを全て受け止め、受け入れ、肯定した上で、Carpe diem : 今を生きることが大切だと思っています。
あまりに浮世から離れすぎて、最早生きているのか死んでいるのかすら、分からない存在になっているのかもしれませんけど。

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