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母校が甲子園制覇した

  先ずは塾高野球部の皆様、本当におめでとうございます。
  私は野球部員ではありませんでしたが、野球部練習場の隣にあるアメリカンフットボール場で、競技こそ違えど同じ日本一という目標に向かって、日々汗を流していました。
  今はアメフト部も野球部も練習時間が短くなったそうですが、当時はお互いナイター設備もあるグラウンドで、日が暮れても声が聞こえるような感じでした。
  慶應義塾體育會には、当時から"練習ハ不可能ヲ可能ニス"の言葉通り、どの部にも不可能を可能にするだけの良い練習が行える設備が用意されていましたが、今日ではその質も更に高まっているのでしょうね。

  塾高野球部が勝ちあがる中で、髪型の話題だとか、森林さんの話題がニュースで取り挙げられることが多かった気がします。
  今日はその辺のことで思う事とか、実際に自分が過去体験したこととか、それに付随して思う事とか色々書ければ良いと思っています。


髪型は本当に自由?

  慶應高校には、校則らしい校則はありません。
  こういうと驚かれる方も多くいらっしゃるかもしれませんが、喫煙や飲酒といった行為も、校則では禁止されていません
  理由は単純で、未成年の場合は"法律で禁止されているから"です。慶應に入るほど頭脳であれば、その程度は知っていて当たり前ということです。
  そして、慶應には留年制度があります。具体的に言うと、1学年につき30~40名ほどが留年します。留年を繰り返せば高校在籍中に20歳を超えるので、そういう方が喫煙所で喫煙する行為は、私が高校の頃は割と普通でした。留年して"同級生"を増やしたり、学校の教員の方と仲良くなることが将来メリットになるような家柄の方で"敢えて留年する”という方も居るので、そういった意味では私学の中でも更に独特な学校なのかもしれません。

  本題の髪型に関してですが、実は唯一校則で禁止されている髪型があります。スキンヘッドです。
  これもある程度納得させるような理由があって、頭部を外傷から保護するためだそうです。慶應に入るほどの頭脳は、可能な限り守られなくてはならない。そのためには髪の毛がある程度あった方が合理的であるという理由から、スキンヘッドは原則禁止されています。
  ただし、病気や家柄等、理由がある場合には許可されます。
  それ以外は頭髪に関しての規制は無かったはずです。バンド活動とかで緑色や桃色にする人も居ましたし、坊主も普通に居ます。
  正直に言えば、野球部の部員たちは殆どが黒髪で、今風のさわやかな感じにまとまっていて、塾高基準で言えばお堅い側の塾生だと思います。

Enjoy BaseballとThinking Baseball

  髪型の話は本質的にはどうでも良い部分ではあって、今回は慶應野球部と森林さんが提唱するこの2つのワードについて触れていきたい。
  先ずEnjoy BaseballというワードのEnjoyとはそもそも何を指していますか?ということだけど、これは創意工夫の余地があることと定義されているようです。
  要するに、ただ皆で集まって野球すれば楽しいよね!ってわけじゃないんです。勝利は全てでは無いけど、勝つために創意工夫して、それが結果に結びついて勝てれば最高だよね!ってことです。
  実はこのEnjoyというワード、野球部に限った話ではなく、慶應の部活の中に根差したイズムみたいなもので、アメフト部の部長(顧問)も常々、"好きなこと、楽しいことを真摯に取り組みなさい。そういうことすら真摯に取り組めない人は、難しい事や辛い事に対して真摯に取り組むことは難しいでしょう。"と仰っていました。

  そしてそれを実現するには、常識に捉われ過ぎることなく良く考えることが大切ということです。
  例えば今回私が面白いと思ったのは、日焼け止めに関してですね。
  "日焼けは火傷なので、そこに疲労回復が使われるから、日焼け止めはしっかり塗るようにしている。"
  野球で勝つための合理性を追求したこの発言は、彼らの野球に対する真摯な取り組みの証であるように感じました。

意見を出し合える環境

  他に今回注目される点として、森林さんが森林監督と呼ばれていない点ですかね。これは塾生からすると普通ではあるんですが、慶應義塾の理念として、天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというものがあります。
  学を志して慶應義塾の門戸を潜ったものは、対等であるという考え方になります。
  慶應義塾では先生というのは福沢諭吉先生のことを指し、それ以外の塾生や塾員は、基本的に対等な存在として扱われます。勿論先輩後輩を始めとした上下関係が無いわけではないですが、対等な存在として敬意を払った上での関係性ということになります。

  そしてその上で、誰が言ったかではなく、何を言ったかが重視される風潮がありますね。
  スポーツではよく、上手な人が他の人に教えるということになりがちです。上の人の意見は絶対的なもので、教える側と教わる側にはベルリンの壁よりも高い壁があるように思うことがあります。ですが、上手な人の欠点も、ずっと傍で観察していれば見えてくることがあります。慶應の體育會では実力関係無く、割とフラットにそういうことを指摘するのが普通だったりします。
  それは勝つために必要だと考えられているからですね。

  少し前には心理的安全性なんて言葉が流行ったりしましたが、そもそも安全性があろうがなかろうが、必要だと考えて発言する意思そのものが無ければ、そんなものは意味が無いのかな、と最近思うようになりました。
  何も言わずにただ従っていれば、それはそれで楽だからですね。
  勝つために、楽しむために必要だから、自分の意見を言うのが当たり前。こういう考え方が集団の中にあってこその心理的安全性ではないかと思っています。
  その上で、互いが意見を違えた時にも、その違えた意見を受け止めるだけの器の大きさが、塾生にはあるように感じています。

全ての人がそれらを実行出来るわけではない

長々と書いてきたので、1度まとめておきます。
・慶應は塾生を規則で縛らない
   社会の規範としてどうあるべきか、主体的に考えて立ち振る舞いなさいということ。
・真摯な取り組み
   本気で楽しんで勝つために何が必要で何が不必要なのか、常に考えながら取り組みなさいということ。
・自由な意見交換の場
   全ての塾生は、対等な立場で意見を交換することが出来る。各々が意見を言う意思があり、意見を受け止める器の大きさがあるということ。

  こうして3点並べただけだけど、これは正直慶應義塾だから出来ることなのかな、と思います。
  勿論慶應義塾に準じるレベルの人が集まった環境、例えば早稲田とか、後は心理的安全性という言葉を提唱したグーグルなんかは、慶應義塾よりも遥かに高いレベルの人が集まっていて、これ以上のことが行われているのでしょう。
  オブラートに包むことなく野蛮な言い方をすれば、これを全ての人が行うことは不可能であるように感じます。

  例えばアスペルガー症候群の人、彼らは視野が狭く、自分が常に正しいと思いがちな傾向がある。
  そういう人が、例えば会社である程度結果を出してる中で、新入社員にちょっとした間違いを指摘されたらどうなるだろうか。瞬間湯沸かし器みたいな典型的なアスペだったら、新入社員はその日のうちに辞めることになるかもしれないというのは、想像するに易い。

  最近良くある闇バイトにすぐ乗ってしまうような人はどうだろう。彼らに倫理や社会通念というものはあるのだろうか。
  そういう人に、自らで考えて、良いと思ったように自由に振る舞ってくださいと言って野に解き放つのは、正直怖いと思う人が多いのではないだろうか。

  そういった分かりやすい、揉め事を起こしやすい人とは真逆な人にも、正直難しいように思う。
  例えば自閉症の多くの人は、他人に対して関心が無い。つまるところ、他人に対して、特に意見を持つことがない。
  そうなれば、他者に対して意見を言う機会は無い。
  ご自由に意見をどうぞと言ったところで、何も関心が無いので何も意見は出てこないのです。

  意見を言うことが怖いと思う方も居るでしょう。自由に意見を述べることは、時に人を傷つけたり、対立を生むことがります。
  そう言った事が怖かったり、面倒だと思う人は、黙っていた方が楽だと考えて、楽な方へと流れていくように思います。

  私はゲームを中心に据えたコミュニティを2つ運営しています。
  1つは元々アジア大会に出ていたくらい、ゲームに対して真摯に取り組んでいたコミュニティで、今もゲームやそれ以外の筋トレとか時事ネタを中心に様々な会話をします。
  今回の慶應の甲子園での躍進も、そこそこ盛り上がっていました。

  もう1つは、手帳を持っている人でゲームが好きな人という共通項を持つ人で集めたコミュニティです。
  こちらは正直メンバーの半数以上が自閉症なこともあってか、時事ネタや他人の興味関心事に興味が無く、話題を振っても基本的にスルーで、ゲームを通じてコミュニケーションを振り返ることを目指しているにもかかわらず、そもそもコミュニケーション自体が行われない状態だったりします。
  結局は真摯に取り組んでいないように感じて、寂しい気がしますね。

  主体的に、真摯に取り組んで結果を出してきた集団と、何となくで集まった集団では、同じ趣味を持つコミュニティでもこんなに差が出来てしまうんだということを、母校が優勝したことで感じてしまったことは、とても辛いことです。
  でもそれが、慶應という環境で育ち、その後も良い仲間に恵まれて、良い経験を積ませていただいた私の持った視野の狭さだったのかもしれません。
  今回の慶應の活躍で、高校野球の常識が変わるみたいな記事も見かけますが、そういう点から見て、一石を投じるきっかけにはなっても、全てがひっくり返るようなことは絶対にないと思うのです。
  何故ならそれは、人は自由に伴って生じる、責任の重さに耐えることが難しいからであるように思っています。

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