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「映子を見つめる」分析 寺山修司のクィア的恋愛

『寺山修司全歌集』より「映子を見つめる」の分析をします。

わが家の見知らぬ人となるために水瓶抱けり胸いたきまで

このぐにぐにした感覚操作の手つきが凄まじい。水瓶というのはやはり作為世界(吉本隆明的にはやはり本人の自然な感覚なのかも)の物品のようだが、寺山修司という娶る立場の人間が嫁入り道具を抱いて胸が痛くなっているのか、映子氏が胸がいたくなっているのか、よくわからない構造になっている。あるいはどちらでもいいのかもしれない。フェミニズム的にも興味深い。人称的にも興味深い。この作歌の手つきが現在継承されていないのが勿体ない(がんばります) 

厨にてきみの指の血吸いやれば小麦は青し風に馳せつつ

レヴィナス的な愛撫と隔絶した対象との交流を描いてそこから先に作為的な世界を入れた作品。でもこれをレヴィナスで分析していいのか正直わからない。というのも彼自体は非常にクィア的な感覚の持ち主だからだ。性別はともかく隔絶した身体の持ち主に漸近するその姿勢を読んだほうがいいのかもしれない。

パンとなる小麦の緑またぎ跳びそこより夢のめぐるわが土地

作為世界もさながら小麦という象徴を上手く使いそこから派生するパン≒生産、家庭から距離を「またぎ跳び」という秀逸な音運びで回避する。 

乾葡萄喉より舌へかみもどし父になりたしあるときふいに

このあたりに来て始めてこの対象の帯びている性別があらわになる。製粉所に帽子忘れてきしことをふと思いいづ川に沿いつつといったあたりの作品にあったクィア性が担保されているのがふしぎ。喉より舌へかみもどし、のくだりがおそらくはそれを担保している。乾し葡萄を潤した状態で舌へ「噛み」もどす。出産のメタファーともとれる一文をここまで圧縮して描ける卓越性、そこから更に父親になりたいという心情を「あくまでクィアに」描けるという手腕。 

製粉所に帽子忘れてきしことをふと思いいづ川に沿いつつ

製粉所というこれまたワールド用語的な不思議な手つきでありながらそこになにか忘れ物をおく。その上で時間経過をえがく。


ここらへんあたりの短歌を読みつつ、穂村宏の分析も参照しつつ(塚本邦雄は惚れているので参考にならないかも)、やはりいちばんクリティカルに感じるのは、吉本隆明の、「ほんとうは虚構ではないのかもしれない」という指摘である。佐佐木幸綱とともに語られた寺山修司自体の作歌の手つきは実はそこまで新奇性にあふれたものではないのかもしれないが、「あまりまとまった家庭に育たなかった」彼の持ってくる独特の手つきが彼をスターダムに押し上げた(それは5-60年代が身体性の時代であったことを示唆する)のであろうという感想。 

全体に、「チェホフ祭」あたりの三人称的世界構築が「映子を見つめる」でややほどけるように見えるのが不思議といえば不思議であり、合点がいくといえばいく。
しかしこの恋愛短歌の凡百と違うのは、対象と主体が入れ替わりの可能性を残しているところである。存在の境界の流動性が彼の強みだったのであれば、やはりそこは意識してその後の作品群を追うべきであろう。


ここで現代歌人として恋愛をみずみずしく歌う雪舟えま氏の恋愛短歌を出してみる。

おなじくらい愚かになってくださいと手に口づけて祈りつづけた

この作歌のてつきもやはり対象と主体が曖昧であるという共通点はあるが、根本的な違いは「流動性」、そして「三人称」である。

寺山修司という人間は文学において人称を多く問題にした人間である。主に彼の批判は太宰治はじめ私小説に向かう。私小説の特徴といえば一人称である。その批判者の寺山が三人称を使うのは、やはり逆張りではなくてそこにある問題意識の差であろうし、あるいは感覚の差であろうと思う。 

もう一つ雪舟えま氏から拾ってみよう。

敷石の蝶を何度も舞い上げてあなたはこの町の人になる

比較として寺山修司からも恋愛短歌を拾う。

馬鈴薯を煮つつ息子に語りおよぶ欲望よりもやさしく燃えて

なぜこの短歌を比較したかというと、この短歌内に込められている支配性、引いては自らに内包された支配性に如何に各歌人が向き合っているかについてピックアップするためである。

雪舟の短歌は一見一人称から二人称にむける事実の陳述に見えるかもしれない。しかしそこには現在から未来への措定があり、それは間接的に支配的な力として二人称に働く。

寺山のほうはどうだろうか。ダイレクトに息子を出し、行動に於いて支配を表しているように見えるかもしれない。しかしそこにはそれよりも「やさしく燃えて」いるなにかがある。ここに相手への支配欲や操作したい欲求は感じられない。むしろ男性的でありつつ女性的でもあるようにおもう。ノンケの歌でありつつ、そこには確かに女性的な目線が存在する。


(おそらくこういった手つきがゲイの歌人たちから嫌われたり嫌煙される理由であったのではないかなと思う。このような男の娘的クィアは現代のゲイはともかくオールド・ゲイは許容しない。ましてや寺山は一応妻帯者であることから、「寺山修司はドスケベ野郎」といった評判をブログに書いていらっしゃるゲイ当事者の歌人がいるのも仕方のないことかなとは思う)

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