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私はジョバンニになりたい

【5月】
それは突然だった。大学を休学して編入先を考えていた私は、家で母と進路について話し合った。
母はリビングにいて、仕事疲れの影響でいつもより少し口調が荒かった。
私は風呂に入る支度を進めようと2階とリビングを行き来している間、いつもより多くの不安事が頭の中に満たされていた。
リビングでパジャマを取ろうとしたその時だった。
漠然と、しかし鮮明に、「私は幸せになれないのかもしれない」と思った。
すると突然体が鉛のように重くなり、涙が頬を伝っていた。息は激しく乱れ、動悸がし、手足が痺れた。
19歳にして、初めての過呼吸だった。


【6月】
それから私は大学のカウンセリングを週1で受けるようになり、週3〜4回アルバイトを続けながら、カウンセラーの方と進路について相談するようになった。
カウンセラーの方は男性で、会話の合間で頷く声が優しかった。私は元々おしゃべりな性格なので、誰かに相談することに躊躇いがない。今思えば、自分の身に起きた悲劇をまるで世間話のように笑って話す私の真意を、彼は理解してくれていたのだと思う。
しかし過呼吸は1日に数回の頻度で再発し、新しい症状も診られるようになった。脱力発作だ。
あるとき突然、プツンと糸が切れたように、全身の力が入らなくなった。私はリビングで犬の世話をしていた。体がゆっくりと横に倒れて、私はテーブルの下でうつ伏せになった。意識はハッキリしているので、腕に力を入れようとするが、ビクともしない。見えない何かで強く身体を押し潰されている感覚だ。しかし数分経つと腕を動かせる一瞬のタイミングが降ってくるので、私はそれを必死に掴み、なんとか身体を起き上がらせた。脱力発作の直後は立っているのもやっとのことで、歩くことなんてもってのほかだ。

それからというもの、私は1日に1回のペースで脱力発作を起こすようになった。
散歩中にピタリと体が動かなくなり、いざ歩けるようになっても、そこら辺のお婆さんよりも遅く歩いていた。
見かねた母がてんかんを疑って、脳神経外科に来院した。MRIで調べても脳に異常はなく、てんかんではなかったが、より精密な検査が必要だとして、病院側は大学病院への招待状を渡してくれた。
その大学病院で、悲劇は起きた。

【6月下旬】
豪雨に揉まれた後の大学病院の外は、肌寒い風と生暖かい湿度で包まれていた。入口に入ると消毒液の匂いが充満し、受付の前は隙間なく人集りができていた。当時の私は脱力が頻繁に診られ、看護師さんが私の席を確保してくれた。
ざわざわと騒がしい待合室で1時間弱待った後、私は診察室に移動し、ベッドの上に横になった。
てんかん症状を確かめるため、私の頭には冷たいクリームを塗りたくられ、その上に管が繋がったシールを多めに貼り付けられた。
脳波の電気信号を寝ている状態で調べることで、てんかんか否かが分かるらしい。
私は強力な睡眠剤を飲んで、その後1時間は横になり続けた。時間をかけて、ようやく眠くなってきた矢先。
バツン、と瞼の裏ごしに室内の明かりが消えた。無音だ。
その途端、焦ってしまったのだろうか。私は1時間経っても寝れない自分を心の内で責めた。すると、まず左腕がガタガタと震え始め、自分の意思とは関係なく跳ね上がる。次に左足、右足、背中、脇、瞼。ありとあらゆる筋肉が一瞬にして激しい痙攣を起こし、小さなベッドがガタガタと大きく揺れた。
パニックを起こした私は過呼吸を引き起こし、ボロボロと涙が溢れた。まずい、このままでは死ぬ。
「すみ、まぜ…っ…!」
振り絞った声で助けを呼ぶと、看護師さんが急いでてんかん専門の先生を呼びに出た。その間も激しい筋肉の伸縮を繰り返し、動悸は止まなかった。
診断は中止され、私はその後、担架で救急室に運ばれた。待合室にいた母が事情を知ると、慌てて担架を追いかけた。
救急室のベッドで激しく暴れ回る私の身体を、6名程度の看護師さんが押さえつけ、発作を抑える注射を打った。
徐々に落ち着いてきた私の手を、母は握った。
2人して怖かったねと笑い、お互いを落ち着かせた。母の手の力は強かった。


【7月】
それからというもの、私は区内の心療内科への受診が決定され、カウンセリングと同様に週1で来院することになった。 
毎日の薬の服用で落ち着きが見られたが、突然前触れもなく発作を起こしてしまうことは少なくなかった。過呼吸、脱力、痙攣。
ますます先が思いやられる中、母は私を気遣って軽いドライブに連れていってくれた。それだけで私は十分だった。

ある日のバイト帰り。母は仕事帰りにも関わらず私を最寄り駅まで迎えに来るようになった。
その日もいつも通り車に乗り、家に帰る道中。母と進路の話題になった。徐々に雰囲気が険悪になり、狭い車内で2人の怒号が飛んだ。お互いに余裕がなかったのだと思う。「休学したくせに」と言われた言葉で、私の心はピークに達した。
目の前に、思い出される数々のトラウマがフラッシュバックしたのだった。その場で叫びだしたくなり、必死の思いで押さえつけると、家に着いた頃には全身が脱力しており、涙が止まらなくなっていた。
その日の夜。私は2階にある自室のベッドにくるまぅた。先程の母の言葉や、今となっては無関係なトラウマばかりが頭の中を占領し、過呼吸に襲われた。「あー」だか「うー」だか呻いていて、薬の効果を待つしかなかった。
母はそんな私の声を聞き、階段を上る音がした。
「来ないで!!」と叫んでも近づく足音に、私の体は壊れた。母を目の前にした瞬間、「あああああああ!!!」と自分でも驚く発狂が出た。慌てて口元を抑えるも、絶叫は止まらない。
こんなに私の体は壊れてしまったんだ、と私はどこか冷静だった。
しかし母はそんな私を見て、ボロボロと泣いて謝った。「私のせいだ」と何度も言葉を反芻して。
私もそんな母を見て、ボロボロと泣いて謝った。
どうやって生きればいいのだろう。
どうやって乗り越えるんだろう。
幸せなはずなのに。
戦っているはずなのに。


【11月5日。午後17時40分】
私は、今日も戦っている。
前より楽に進路のことを考え始めて、ふと中学のときの台本を漁った。銀河鉄道の夜を中学演劇として編作した、『星空に見たイリュージョン』という台本だった。

当時の私は演劇部に所属していた。どれもが楽しかったあの頃に、今でも私は支えられている。
私は演劇部に入って間もなく、この作品のカンパネラを演じることになった。
演劇に対して無知だった私は、後にカンパネラ役を3役演じることになるのだが、その理由も今では何となくわかる。
カンパネラが望む「ホントウの幸い」とは、自己犠牲的な救済を指す。私は今年、身をもってそれを体現した。それは危うく、傲慢で、決して褒められたものではない。
カンパネラもそれを分かっている。しかし死より後悔を恐れる彼にとって、他者の救済は本能であり、防御であり、死を持って生を全うすることが彼の幸せなのだ。
しかし、私はそんなカンパネラを否定する。「ホントウの幸い」が、自己犠牲の上で成り立ってたまるか。
カンパネラは主人公ジョバンニに対し、銀河鉄道の旅を介して強くなったと褒める場面があるが、違う。ジョバンニは最初から強いのだ。彼はザネリや他の同級生に親をバカにされても強く怒る度胸がある。彼は唯一の友であるカンパネラが死んでも、後追いはしない。私は、ジョバンニのように生きたい。
劇中、カンパネラの死を嘆き悲しむジョバンニに対し、外套の男がこう言う。
「お前がつらい気持ちなのは分かる。でもこれからは、お前の周りの人すべてがカンパネラだ。おまえは、おまえのためにも、周りのためにも、『ホントウの幸い』を求めて、周りの人すべてと生きていくことだ。それがらおまえとカンパネラがいつまでも一緒にいられるただ一つの方法だ。」
「ーーさあ、ジョバンニ、立ち上がるんだ。おまえのポケットにある、『どこまでも行ける切符』を持って、真っ直ぐに進んでいくんだ!」


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