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わたしにとっての「書く」とは
クリエイターページの一言プロフィールにも載せているように、私は文章を書くことが好きです。
note使ってんだから当たり前だろって感じかもしれませんが、noteを使い始めた一番の理由は「書くことを最大限楽しめそうだから」です。
自分にとって、「書く」とはいったいどういう行為だろう?
最近こう考えることがありました。
表現の場、稼ぐ手段、自己顕示欲を満たす方法、、
人によって色んな位置付けがありそうです。
私が行き着いた答えはこれでした。
思考を整理するための手段
昔から世の中のことや物の仕組みについて深く考えるのが好きなのですが、いっぱい考えると頭がごちゃごちゃしてきますし、忘れたりもします。
だから、書いて整理します。
ただ残したいからというよりも、思考や思索した内容をさらに整理して咀嚼するための溶媒として「書く」という行為を用いている感覚が強くあるなあと、最近気づきました。
だから、文章は作品であるという意識もなくはないけれども、
どちらかというと思考の軌跡、磨いて整理して最後に残ったもの、思考の残りかすというイメージの方が近いかもしれません。
いつだったかこのnote記事を読んだときは、とても共感を覚えました。
文章っていうのは不思議なもので、時間が経てば経つほど筆者から遠ざかっていって、べつの人格を持つ。だからひさしぶりに再会した文に書かれている文言は他人のことばであるかのように感じられてしまうのです。
これとか。
だけれども、文章はいち度書いて公開してしまうと、途端に熱が冷めてしまう。一年くらいまえに友人が語ったひと言を、僕はいまでも頻繁に思い返します。
「忘れるためにnoteを書くのだと思う」。
これとか。
僕が今回長編小説をなんとか書ききることができたのは、noteで都度発散せずに、「ジャーナル」に記録し、記憶のなかで熱を保たせることができたからなのだと
これとか。
特に、“忘れるためにnoteを書く” は鋭く言い当てているなあと思います。
私も文章を仕上げて思考整理が一段落したら、いったんそのトピックから遠ざかり次のことに意識が向き始めるからです。
忘れるため。いやあ絶妙な表現ですね~。
あと、この「切れ端」感もわかります。
文章の切れ端、思考の切れ端ですね。
さて、「書く」の位置付けが思考を整理するための手段であるせいか、私は「速く書く=いいこと」という風な考え方に抵抗感を持っています。
なぜなら、私にとって書いている時間はすなわち思考を整理している時間であり、そこに最も価値があるのであって、
最後に残る文章が第一目的ではない(=いかに効率よく文章を書けるかは大事ではない)からです。
ただ、速く書けるということは思考の整理もそれだけスムーズになり、もっと考えることが楽しくなるかもしれません。
一方で、型にはまりすぎて自分らしい味のある文章が書けなくなるかもしれません。
だから正直なところ、どちらがよいかは結論が出ていないのです。
趣味である映画鑑賞でも、似たような感覚に陥ったことがあります。
大学時代に現代表象文化論?みたいな講義を履修していました。
映画産業の歴史や表現技法などについて学ぶのですが、そこでふと思ったのです。
好きな映画について知れるのは楽しいけど、映画について深く知れば知るほど純粋な娯楽作品として鑑賞できなくなるのではないか?
色々な知識があれば色んな見方ができて楽しいじゃない、という意見もあるとは思います。
でも「今日は純粋に物語として楽しもう」と思ったところで、一度ついた撮影技法や映画産業の知識はどうしてもそこに投影されてしまう気がします。
ビビりすぎかもしれませんが、何かを知りすぎると知る前のような無邪気な状態には戻れなくなる気がするのです。
考えすぎかもしれませんがね笑
まあなんにせよ「書く」ことは楽しい。
今日も書けることに感謝!
'21/01/30 最終更新