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今の日本的価値観で今後も社会を運営していけるのか? コーンロウ事件に思う
「卒業式」「髪形」「隔離」の文字がセンセーショナルですが、元々気になっていてしかもロザンの楽屋動画でも採り上げられていたので、ちょろっと内容を調べてみました。
比較的わかりやすかった記事を以下に紹介します。
ロザンのお二人の話にあったように、たしかにメディアは全体的に差別批判論調です。
差別とか人権みたいなテーマは往々にしてそのへんのバランス感覚を見誤りがちになるので、「そこだけ切り取るのどうなん?」みたいな違和感はたしかに理解できます。
他にも、以下のような話やコメント欄の意見が見られ、それぞれまあ少しずつ共感できる部分はありました。
生徒側ももっと説明して理解を求めるべきだったのでは?
(繰り返し注意されていたとしたら)改善しないのが悪いのでは?
校則を知って通っていたのなら従うべきでは?
過剰な学校・教員批判はちょっと違う
教育委員会の謝罪は何に対してかハッキリしてほしい
一方、動画でも言われているように、断片的な情報しか知らない状態で誰が悪いかを断定することはできないしナンセンスだというのは、私も100%同感です。
だからというわけではないですが、個別の善悪からは少し離れて、自分のもモヤり部分を書きたいと思います。
アイデンティティや ‘表現’ の優先度が低い社会
まず思うのは、髪形ってめちゃくちゃ重要なアイデンティティだよねって話。
ニュースになった彼にとってどれくらいアイデンティティと結びついた行動だったのかは、正直わかりません。
わかりませんが、髪が身体の一部であり、ルーツや憧れや自信や主張など様々な要素を司る場所であることは変わらぬ事実です。
そしてこの、髪形を強要されたり拒絶されるということの捉え方が、実はかなり人によって異なっているのではないかと思うのです。
上記記事で書いたように、日本社会は自己表現やアイデンティティよりも、調和・ルール・常識・TPOというものを重視する傾向があります。
(断っておきますが良いか悪いかではなくあくまで傾向の話をしています)
それは髪形に関しても影響を与えており、例えば学校生活や就活などでもルールに沿った髪形にすることへの抵抗感が比較的少なく、むしろルールの中で工夫をし始める順応性すらあるほどです。
昨今は「ブラック校則」として数々の理不尽な校則が話題になりますが、理解に苦しむ・腹立たしい・ルールとして度を超えている 程度に感じる人は多くても、アイデンティティが破壊される・深刻な人権侵害だというレベルで捉えている人はまだまだ少数派でしょう。
今回の件に関しても、「そんなに意地を張ったり人に迷惑をかけるくらいなら、卒業式くらい無難な髪形にしてくればいいのに・・」という見方をしている人がそこそこいる気がします。
でもそれは、彼にとってはまったく違った見え方をしていたかもしれない、という可能性を忘れないでほしいのです。
そういう意味でこの文春の記事は、決して大袈裟な内容やただの偏った捉え方だとは思えませんでした。
社会の価値観を再構築しないと歪みは大きくなる
日本は、世界的に見て格差が小さくインフラも行き届いており、大学ランキングが…とは言われるものの恵まれた教育水準にあり、調和やルールを大切にし容姿も似たような人が多い。全体的に国内の同質性が高いです。
だからか、同じ国で同じように暮らしていれば、みなが同じ世界の見え方と同じ価値観をしている、あるいは共有できると思い込みがちなところがあるような気がしています。
「男女で見えている世界が違う」という書きかけの記事が今あるのですが、他にも同じ大学に入った同姓・同学年の友人ですら、全然違った世界の見方をしていたというカルチャーショック経験のある私。
世の中でなかなか噛み合わずに紛糾するトピックは、だいたいのケースでお互いが複数論点をごっちゃにしている/整理できていないことに起因していると考えていますが、最近もう1つあると気づき始めました。
それが、『想像以上にお互いに見えている世界が違う』ということです。
これは認知の歪みや知能うんぬんではなく、想像で補えないレベルの体験の差異からくるものです。
想像で補えない、つまり自分の中から発想がそもそも出てこないので、見え方の違いを認知するには、注意深く相手の声に耳を傾けるしかないのです。
だから、「ルールを守らないのが悪い」という意見が出てくるのもわからなくはないですが
このやり方(価値観・規範)で
これからも良い社会を運営していけそうですか?
ということを改めて問いたい。
日本社会は子どもたちを必要以上に子ども扱いし、躾や教育という名の下で生活の細部までことこまかく介入・管理し、自由で対等に耳を傾けてもらえるアウトプットの場はあまり用意されていません。
ある意味では保護が手厚いと言うこともできるかもしれませんが、それは同時に別の角度から見たときにゾッとするほどの破壊力を持ちます。文字通り、人格やアイデンティティといった人間の根幹を破壊します。
現在の日本社会の価値観の下で、激しくアイデンティティを毀損されている人たちが存在するということには、向き合わないといけません。
私は、『郷に入りては郷に従え』を引き合いに出して、安易に強権的な態度をとる人が嫌いです。自分が立場の強い側、マジョリティ側として都合良くあぐらをかくために使う人が一定数いるんですよね。
『郷に入りては郷に従え』にはある程度合理性もあるものの、受け入れる側が傲慢に振る舞っていいとか、やって来た人たちをこちらがリスペクトしなくていいとか、来た側が全部染まるべき、というわけでは決してないんですよね。
むしろ、元々 ‘郷’ にいた側も一緒に対話してしなやかに変化・再構築をしていかないと、良い社会・良い未来は育めないと思います。
日本でずっと暮らしていると、どうしても分母が日本(かつ多く触れてきた価値観)だけになりがちですが、もっと分母を広げて日本社会的価値観の「傾向」を相対視できることがまずは第一歩な気がしています。
'23/04/07 最終更新