おとなの話 ~平等とは?~
新しいマガジンを作ったので、少しずつ色々書いてみたいと思う。
「おとこ」と「おんな」を混ぜて「おとな」。
逆の混ぜ方だと「おんこ」で響きがイマイチだし、う○こみたいなのでやめた。
男女平等とよく言われるが、実際何が問題で平等が達成された状況とはどんな状況か。
ここに関しては1人1人がもっと自分なりに咀嚼して、再解釈・再定義すべきだと思う。
流れてきた言葉やイメージになんとなくそのまま乗っかって、浅いところで上滑りの議論・感情のぶつけ合いをしている場合ではない。
よく誤解されがちなのが、
→ 男性特有の○○、女性特有の○○、みたいなものををなくす
→ 男女に関するあらゆるものを完全に同数にする
のような方向性。
もちろん本気でそう主張している人たちもいるだろうが、SNSで流れてきた/友達から聞きかじった情報を元に
「男女平等を主張する勢力やフェミニズムを唱える人たちは例外なくそういうことを考えている」
と誤解している人も多いのではないか。
※「平等と公平では意味が違う、公平を目指すべきでは?」みたいな記事があったりして言葉の使い方にも議論があることは知っているが、ここでは脇に置いておく。
私が今のところたどり着いている結論は、(別に目新しくもないが)これだ。
同じようにチャンスがあること
今改めて考え直してみると、根本的には「男女関係なく1人の人間として尊重される」という世界にしていくことが大事な気がするので、
それをもう少し認識しやすく実利面に落とし込んだものと言うことができるだろうか。
チャンスがあること、機会が保証されていること、選択肢があること。
じゃあ南極でもスイカ割りを楽しめるようにすることが「平等」の実現かというと、そういうことではない。
南極にはスイカが育たないのでよそから持ってくる必要がある。
南極までスイカを持って行くのは大変だ。
持って行けたところで、温度管理に気を付けないとスイカはあっという間にコチコチになってしまう。
つまり、南極でスイカ割りをするのが難しいということには、合理的な理由や納得感がある。
一方で、部長への昇進を志望していて相応の能力も備えている女性が、「女性だから」という理由で昇進できなかったとしたらどうだろう。
そこに合理的な理由や納得感は感じられない。
さらに、例を挙げてみる。
建設現場などで働く土木作業員には、女性が少ない。
おそらく近年若干増えてきているとは思うのだが、職業イメージは依然男性色が強い。
これはある程度仕方がない部分だとは思う。
なぜなら、土木作業員の仕事はどうしても体力や筋力が必要となり、男女の身体的特性が大きく影響することになる。
たとえ同じ数の男女が志望し平等に評価されたとしても、男性の方が採用される確率が高くなるだろう。
ただ、体力や筋力にも自信があり申し分ないレベルであるにも関わらず、「女には現場仕事はさせられない」という理由で不採用とするのは明らかにおかしいと言えるだろう。
現場で必要性が認識されるからこそそれがインセンティブとしてはたらき、機会の保証の動きが起こりやすいということを考えると、男女を同数に近づけていくことと鶏か卵かという話にもなってはきそうだが、
同じようにチャンスがあることはやはりポイントになってくるのではないだろうか。
ちなみにもちろん、性別が極端に偏ることによる弊害も考えられるので、それはそれで検討を加える必要があると思う。
ここまで必ずしも男女同数を目指す必要はないと言ってきたが、1つだけ例外がある。
国会議員を初めとする政治の世界だ。
議員は国民を代表して、様々な議論や判断を行う。
男女の人口がほぼ半々であることを考えると、やはり議員に女性が少ないというのは問題だ。
無論、政治家は様々な立場の意見を吸い上げ高度な判断を行うプロフェッショナルだ(実態がどうかは別として)。
立場が違う人たちのことも考慮して、公平な目線で舵取りをしてくれるだろう。
とはいえ、どうしても自分の経験や生きてきた世界に影響を受ける。
貧富、人種、宗教、性別、その他様々な違いの影響は少なからず受けてしまう。
クオータ制という一定の女性枠を設けるアプローチがあるようだが、私はそれくらいやってもいいのではないかと思う。
そしてもっと、女性が政治家を目指したり活躍しやすいような環境整備も進めるべきだ。
かっちり同数にする必要はないが、政治の世界には現実世界の多様性をもっと積極的に取り入れる義務があると感じる。
'21/01/11 最終更新