『道』(1954)
フェリーニ繋がりで、久しぶりに観た。
思えば、『道』は、親父の人生ベスト・ムービー的な存在で、実家にDVDが置いてあった思い出がある。幼少の頃はすすんで見ようという気にならず、なんなら、親父と一緒に1回くらい観たのかもしれないけど、あんまり記憶にない。大学生になって1回観た時は、なんか、辛気臭い話だな、という印象しかなった。
数年の時を経て観ると、やっぱ、いい映画だな、と思った。
何が良いといって、一つには、曲芸師が、ジェルソミーナを励ますために語るシーンが、ハッとするほど良いなと思った。
家族のためにザンパノに身売りし、ザンパノの曲芸(フン!と力を入れて、胸に巻いた鎖を引きちぎるやつ)のアシスタントとして劣悪な環境で働くジェルソミーナ。ストックホルム・シンドローム的なものなのか、ザンパノに愛着を抱き、すすんで「あんたと一緒にいる場所が家なんだわ」とさえ言うようになるんだけれども、ザンパノは、鼻で笑うばかりである。
そんな中、陽気な曲芸師と出会い、ひょんなことからサーカスの一団に所属することになる。
ザンパノが暴力行為を起こし、警察沙汰になって、逃げるようにサーカスの一味が去った後、取り残されたジェルソミーナに、夜空を見上げながら、ぶっきらぼうに語る曲芸師。『あしたのジョー』のような、センチメンタルなロマンチックさがあるワン・シーンだ。何の役にも立っているわけでもなく、サーカスの一味にとってのお荷物でしかなく、唯一、心の繋がりのようなものを期待する相手であるザンパノにもぞんざいに扱われ、落ち込むジェルソミーナに、曲芸師は、「この小石にだって、存在する意味はある」と語る。
あと、最近は、同じ場所に(物理的に)ずっと居続けるということに、不思議な居心地の悪さを感じていて、その由来が、なんなのか良く分からないでいたのだけれど、ジェルソミーナと修道女のなにげない会話にハッとする部分があって、そういうものに、予想外に出会えるのも映画の醍醐味だと思った。
キリスト教に「同じ所にとどまることなかれ」的な教えがあるのか知らないけれど、これは、納得が行くように思われる。
同じ所に長くいることの何が良くないか、といえば、一つには、所謂、しがらみ的なものにとらわれて、ぬかるみに足をとられるがごとく、身動きが取れなくなるから、ということ。そんな中で、一番大切なことを忘れる危険があるからなのだろう。終いには、すすんで「あんたと一緒にいる場所が家なんだわ」的な事を言いたくなるような状況に陥ってしまう(とはいえ、ザンパノが、ラスト・シーンで、ジェルソミーナがそう言っていたのを思い出して泣き崩れるように、それはそれで素晴らしいという状況もあるのだと思われるけれども)。
という事を考えていると、いつも思い出すのが、ザ・キュアーのロバート・スミスのインタビューだ。「いろんな土地を移り住みたい、という人もいれば、一つの場所に長い事住みたい、という人もいる。僕は、一つの場所に留まりたいと思うタイプなんだ。今の妻と知り合って数十年になるけど、もっともっと、彼女のことを知りたいと思っているよ…」と言っているのを読んで、感銘を受けたことがあって、つまり、「いっぱい移動したい派」と、「ひと所にとどまりたい派」の、どっちが正解かといえば、pro & conというか、コントロバーシャルというか、人によるし、時と、場合によるのではないか?(そりゃそうか)
いずれにせよ、この、人生という名の「道」を、(精神的にだけでも)移動というか、前進していかねばなりませんなぁ…ということを思った。