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『ミツバチのささやき』(1973)

子どもの頃は、愛媛の山奥に住んでいたので、10分も歩くと、ベトナムの農村地みたいな風景が広がっていたり、汚い池があったり、用途不明の沼があったりした。夜の散歩ということで、一人でその沼付近に行ったりすると、なにか、netherworld的なものの入り口に立っているような気がしたものだ。

なので、子供時代というのはそういうもんなんだ、というような考えが自分の中にあって、現状の生活で、自分の娘に、そういう感覚を味あわせてあげられているだろうか?ということは、考えてしまう。どことなく閉塞感のある、小都会のベッドタウンでの子供時代というのは、ひどく魅力のないものにならないか?(勝手に自分が閉塞感を抱いているだけかもしれないけれど)

『ミツバチのささやき』を観ていると、そういった、幼少期の感覚を思い出した。

冒頭のシーン、主人公(というか)の姉妹が、映画館で『フランケンシュタイン』を観て、目をキラキラさせながら、「このシーンはどういう意味?」「後で教えるから」と、小声で語り合うくだりで、涙がこみ上げてくるものがあった。子供時代、たまにTSUTAYAで借りてきたビデオを家族で見る、みたいなイベントがあって、『ジュマンジ』とか、『ジュラシック・パーク』とかを観ていて、子供心に、意味が取りづらい場面があったりすると、「これ、どういうこと?」と姉とかに言っては、黙殺されていた思い出が蘇る。

映画や、小説を読むことに関して、年をとるごとに感情の振れ幅が少なくなるということをとみに思う。それは多分、子供の頃に観た映画は、10本くらいのうちの1本であって、今見る映画は、今年ようやく3本目の映画だ、とか、そういったもので、相対的に感動が小さくなるということではないだろうか。それは人生全般に関しても言えることだろう。3歳の頃の1年間は、人生の3分の1で、自分にとっての1年間は、人生の40分の1レベルだということ。

「ぼのぼの」で、アライグマのお父さんが言っていた、「オトナと子供のちがうところ」を思い出す。ぼのぼのは、小さなラッコの子供で、アライグマのお父さんは、壮年のアライグマだ。ぼのぼのは、「オトナと子供の違いとはなんなのか」、思い悩んでいる。それは、言葉なのか(「ぼのぼのちゃん、我々は現世を犬のようにさまよう生と死の象徴なのではあるまいか」)?「死」からの距離なのか?

そこで、アライグマのお父さんはこうアドバイスする。

アライグマの父
「あのな、おまえが思ってるほどオトナと子供はちがわねぇぞ。
 ちがうことって言ったら…
 おまえ… あの山のあの辺はどうなってると思う?」

ぼのぼの
「ボクはこうかなぁ」
(ひらひらと落ち葉の舞い降りる、きれいな森の風景を思い浮かべる)

アライグマの父
「オレはこうだと思うよ」
(舞台の書き割りのような、ただの道を思い浮かべる)

「向こうの山のあの辺は?」

ぼのぼの
「こうかなぁ」
(山々の合間に切り立った斜面があり、木々が立ち並ぶ風景)

アライグマの父
「オレはこうだと思うよ」
(先ほどと同様の、舞台の書き割りのような、ただの道を思い浮かべる)

ぼのぼの
「おじさん、それじゃあ、どこに行っても今いる所と同じように見えるの?」

アライグマの父
「だって同じなんだよ」

ぼのぼの
「でも、ボクが行った南の方にある坂はちがうよ」

「こうなってたよ」
(傾斜のある道の上を、鳥が空を飛ぶ、きれいな坂のイメージ)

アライグマの父
「あ〜、あそこか」
「オレも最初はこう見えたよ」
(傾斜のある道の上を、鳥が空を飛ぶ、きれいな坂のイメージ)

「そのうちこうなったけど」
(舞台の書き割りのような、ただの道を思い浮かべる)

「今なんかこうだよな」
(道ばたの植え込みを思い浮かべる)

「もうおもしろくもなんともねぇ」

ぼのぼの「アライグマのお母さんが来たの巻」

『ミツバチのささやき』は、ものすごい可愛らしい(4-5歳くらいの?)女の子が、『フランケンシュタイン』に衝撃を受ける中で、現実と幻想がごっちゃになっていく姿を描いていて、すごく面白かった。それこそ、「子どもの頃のような視線」で世界を観られるような映画だった。

ちなみに『ミツバチのささやき』を見るために、今まで乗ったことない路線の電車に乗って、降りたことのない駅(菊川駅)で降りたんだけれども、都内ではあるんだけど雑然とした町並みで、なんか、千葉の町並みと変わらねぇな、おもしろくともなんともねぇな、と思っていた所、映画を見終わって外に出た瞬間は、路傍に佇むお婆さんとかもすごく意味ありげに見えて、とても鮮やかな景色に見えた(そういった感覚は、30分くらいで消えてしまったけれど)。


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