#4教えるについての哲学対話
1. 問いを立てる
2. 各人の問題意識の確認
3. さまざまな体験例を出す
1. 主題に関する言葉の用法
1. 言葉が使われる際の文脈
2. 類義語・対義語
2. 主題に関する実感的な諸体験
4. 上の事例に即した、主題の「意味」の明確化とカテゴリー分け ←今回
5. 主題の「成立根拠」の考察
6. 最初の問題意識や途中で生まれてきた疑問点に答える
はじめに
noteを開いていただきありがとうございます。
にーぜろです。
今回は教えるに関する哲学対話の続きとして前回までのnoteで出した主題に関して、その「意味」の明確化とカテゴリー分けをしていきたいと思います。
第1節
まずこれまでの事例をカテゴリー分けしていこうと思います。
1. 教師が教える
1. 授業において教師が計画を立て、明示的に知識などを学習者に伝える
2. 授業において教師が計画を立て、明示的にではなく、「学習者主体」という形態で知識などを発見・獲得することを目指す(これについては教えると言う人もいればそうでない人もいると思います)
2. 生徒同士による教え合い
1. 授業において分かる子が分からない子に問題の解き方などを伝える
3. 会社において上司(先輩)が部下(後輩)における教える
1. 上司などが資料の作り方や電話のかけ方などを教える
4. 上記の立場の逆転
1. SNSなど、特定のテーマについてより詳しい方が詳しくない方に使い方などを伝える
5. 友達同士の教える
1. 情報ややり方を伝える(どこどこのパフェがおいしいやアプリの使い方など)
6. 知識の伝達以外
1. ガート・ビースタ:他者に成長した仕方で存在したいという欲望を引き起こすこと(学校教育)
7. 教育という言葉
1. 意図的に他者の学習を組織化すること
2. 教育者エージェントの説明、指示、例示、禁止、評価などの行動を利用しながら個体学習や観察学習ではなしえない学習を行う能力によって学習が成り立つような学習様式
3. 苫野:「すべての子どもたちが、「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きられる力を育むことにある」
とこんな感じでしょうか。
カテゴリー分けの仕方としては不十分な面もありそうですが。
まあこの分け方でも見えてくるものはありそうです。
それは教えるにはいくつかのレベル(段階?次元?)があるのではないかということです。
教師の事例やガートビースタの言う教える及び教育という言葉の際には、かなり周到な準備が隠されているように見えます。
教材の準備はもちろん、具体的な知識の提供に留まらないものを目指しているものがありそうです。
といっても教育という言葉を代用して持ってきているので、この点はむしろ教育と教えるの違いがどこにあるのかという議論に貢献する部分かなと思います。
一方で生徒同士の教え合いや会社、友達同士の教え合いについては、正直教えるー教えられるの立場は特に関係ないということが見えてきそうです。
共通していることとしては、口頭などで説明すること、現在テーマとなっている内容について知っている(出来る側)がそうでない側に対して知識や情報、技術などを伝達することでしょうか。
しかも教える内容の正しさや正確さといったものは無視してもよいでしょう。
こうしてみてくると教えるという言葉が色々議論が起こるのは学校教育など教育の場においてなんでしょうかね。
以上をまとめると以下のようになるかなと思います。
教えるには学校教育で行われる(特に教師によって)ように、用意周到にかつ知識や技能といったものの伝達を通して何かを目指そうとする面が一つ。
と同時に、学校現場(子ども同士の教え合い活動や、生徒の言動から教師が教えられる)や学校現場以外で使われるように、その場その場で知識や情報、技能について伝達し、そのことを目的としているものがあるということが分かります。
また後者においては立場の関係性は特に意味がなく、知識や情報を持っている側がそうでない側に伝達するというのがありそうです。
(その裏には、伝達した通りに動いてほしいという思惑もありそうですが)
終わりに
ここまでお読みいただきありがとうございました。
なんとなく教えるという言葉について解像度?が上がってきたように思えます。
次回ですが、本来なら「5.主題の成立根拠の考察」なのですが、成立根拠の考察しようにも出来そうにないので、申し訳ないですが、飛ばして「6.最初の問題意識や途中で生まれた疑問に答える」を書いていこうと思います。
ではでは最後までお読みいただきありがとうございました。
失礼します。