自由と民族:孫文の『三民主義』再読
孫文の『三民主義』(1924年)を30年ぶりぐらいに読み直した。この間、リベラリズムをはじめ、近代社会についてずーっと考えてきたから革命家・孫文の近代についての捉え方は実に興味深かった。
中国の近代化の目標を民族、民権、民生(生活の豊かさ)で三民主義としたのは、実に分かりやすくツボを心得ている。まず「民族」について。孫文は、中国はバラバラの砂であり、それをまとめるのに「民族」が必要であり、民族こそが自由の道だという。
ここには福沢諭吉が「一身独立して一国独立す」(『学問のすすめ』1876年)というような個人の自由と民族の予定調和はない。個人の自由より民族や国家の独立により重点がある。これは当時最新の政治潮流であったレーニンの「民族自決」(1917年)にも後押しされている。
孫文からすると「民族の自由なくして個人の自由なし」ということだろう。個人の自由が民族の自由に完全に転倒されており、通常のリベラリズムの自由ではありえない。20世紀の反全体主義の闘将にして新自由主義の元祖・ハイエクならば、「部族精神」の復活として厳しく断罪するだろう(『法と立法と自由』3巻、1979年)。
しかし、個々人の苦境がnation(民族/国)の苦境に密接に直接につながっている、言い換えれば「nationなくして個人なし」と感じられれば、「nationへの自由」は成立する。というより、ナショナリズムは近代社会において必然的に生起する感覚ではないか。
もちろんこれをハイエクは近代文明からの退行と拒絶するだろうし、今の日本人の多くも違和感を持つだろう。しかし、ナショナリズムは悪と断罪して済む問題ではないのではないか。欧米列強の脅威をひしひしと感じていた福沢には、国の独立ために一身を投げ打つのは当然だという感覚がある(『学問のすすめ』)。
この感覚は、ウクライナやバルト諸国、ミャンマーの人びとにも確実にあるだろう。さらに孫文は、反民族主義の(ハイエクのような)世界主義は帝国主義の言い換えにすぎず人々を従属に陥れており、だからこそ民族を元に国を作るべきだとする。
民族や国家の強調は、孫文の革命ロシアに対する人民独裁の高評価にもつながっている。20世紀前半は、英米でもケインズのパンフレット『自由放任の終焉』(1926年)に見られるように、政治の議会主義と経済の自由放任主義の克服が叫ばれ、国家権力が集中強化された。孫文は19世紀型の自由放任資本主義とものごとが決まらない議会主義ではなく、民衆に委任された強力で有能な政府によって国をまとめ、人々の生活の豊かさを実現したいと考えているようだ。
三民主義は、孫文が近代社会の本質を捉えた上で、20世紀前半の潮流を取り入れ、練り上げたじつによく出来た革命戦略だと思う。20世紀中盤以降の民族独立運動の典型モデルになりえている。だがそこには個人の自由の抑圧や主流民族(漢民族)以外の民族に対する抑圧の危険もまた兆しているように思える。現代でもこの問題は全く古びていない。
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