質問③④⑤
※ゼロ回参加の方からの質問にお答えしました
質問③
ミツアナグマ: 〈今〉は、時々刻々と推移していることを実感できるため、これを実感できない〈私〉とは決定的に違うのではないでしょうか?
永井:決定的に違います。しかし、この問題連関で〈今〉という問題を理解する際には、時々刻々と推移していなくてもよいのです。例えば〈今日〉とか〈今月〉で考えても、全く同じ哲学的問題が設定できます。
質問④
晃太郎:「私こそが〈私〉だ」という文章には、仮にそれが本当だとしても証明力がありません。俳優の「今は演技中じゃない」という台詞も、それ自体脚本である可能性がある以上、自分自身の真面目さを証明できません。いまこの文章を書いている私(晃太郎)がロボットではないということもそうです。これらは〈私〉の問題と何か関係があるのでしょうか?
永井:その問いは心(意識)があるかないかという通常の心身問題や他我問題と同じ水準になってしまっています。同じ問題を〈私〉であるかないかだけで捉えたのが「風間くんの質問=批判」なので、『哲学探究1』の付録で確認し、その水準で考察していただけると「何か関係がある」どころかそのものズバリとなります。
質問⑤
学:前回の範囲で恐縮なのですが、段落2に【一般的な種類がまずあって、あらゆることはその一例なのである。森羅万象がそういう構造を体現しているとしたら、それはたしかに不思議なことだ。なぜ、世界はそのように出来ているのであろうか。】とありますが、これは人間は言語で思考しているため、世界はそう捉えざるを得ないからなのではないか、と考えたのですが、いかがでしょうか。
永井:そう考えることもできます。逆に何故か世界がそうなっているから言語がそうなったのだ、と捉えることも出来ます。というのは、言語だけそういう構造をしていても、世界の側にそういう種‐類構造がまったくなかったなら、その言語は使えないでしょうから。
※ご講義を受けての質問ですので、次回からは、ご質問を塾生の方に限らせていただきます。ご了承下さい(山括弧塾事務局)