質問(24/7/18講義)※追記あり

真彦:
① 第5回 第33段落
「・・・「私はじつはこれ(、、)(経歴の記憶を指す)ではない」ということもまたありえない。それ(、、)こそが〈私〉、でもあるからだ」について。
たとえば、デカルトが「ラフレーシュ学院に通っていた、そこでの生活が斯く斯くであった」という経歴の記憶を今持っているが、「今デカルトであるその身体は「ラフレーシュ学院に通っていた、そこでの生活が斯く斯くであった」という体験をしてない」ということが(名簿調査や同級性であるはずの学生への聞き込みなどによって)明らかになったという場合、そのように「この経歴の記憶が偽であること」と、「「私(この場合はデカルト)はじつはこれ(、、)(経歴の記憶を指す)ではない」ということがありえない」ということとは、どのようにして両立保持されるのでしょうか?

永井:
「私(この場合はデカルト)はこれ(、、)(経歴の記憶を指す)である。しかし、私が現在唯一自由に動かせるこの身体の諸感覚機能はそのことを体験していなかったようだ、のようにだろうと思います。

真彦:
ここでいう「経歴の記憶」の内容のうちにも、視覚的なもの、聴覚的なものなど、感覚的なものが少なからずあるはずですが、それらは身体の諸感覚機能によるものではないということになりますか?

永井:
違います。身体の諸感覚機能によるものではないのではなく、その身体の諸感覚機能によるものではない、ということです。ポイントは感覚ではなくその身体がであるかどうかにあります。それが「偽」を可能ならしめるので。

真彦:
以下のような理解でよいのでしょうか?
”それ”が私であるといえるような経歴の記憶内容のうちには、身体的、感覚的な内容も含まれるが、それはすべての出発点であり誤りのありえない記憶内容の一部としてある。
一方、現在そこから世界を開いている身体、私が現在唯一自由に動かせるこの身体は、実在的・客観的世界において存在するものとしてあり、その身体・感覚によって為されたとされる体験内容は、その世界に適合すべく実在性・客観性をもつものとして、あとから構築されたものである。従って、その身体・感覚によって為されたとされる体験内容は、”それ”が私であるといえるような、かの経歴の記憶内容とは(内容的に一致することがほとんどだとはいえ)、本来、在る場所がことなる。

永井:
いやいや、全体として、ごくごく簡単な話をむずかしく考えすぎです。
「”それ”が私であるといえるような経歴の記憶内容のうちには、身体的、感覚的な内容も含まれるが、それはすべての出発点であり誤りのありえない記憶内容の一部としてある。」
ともいえるでしょうけれども、ポイントが外れています。それが「すべての出発点であり誤りのありえない記憶内容の一部として」あるかどうかは問題と関係ないので。
「その世界に適合すべく実在性・客観性をもつものとして、あとから構築されたものである。」もそうです。これもまたそうともいえるでしょうけれども、ポイントが外れています。その話も問題と関係ないので。
記憶の真偽を決めるのはその身体(その記憶を持つその身体)がそれをした(にそれが起こった)かどうかである、というきわめて簡単でまったく当たり前の話に過ぎません。

真彦:
もしそうなら、この点に限って言えば、夢でも同様のことが言えると思いますが、通常の夢では、「私はこれである」ということまでにはならない。しかし、「イタリア人サッカー選手になる」話では、実在世界における動かせる身体が体験してなくとも、「私はサッカー選手であり、実際にプレーしていた」といいうるように思います(覚めることのない、それ自体で完結している外のない世界なので)。身体の感覚機能による体験とは別の水準において、持続する〈私〉が依拠する経歴の記憶があることを示すものとしては、デカルトの経歴記憶の例と、このイタリア人サッカー選手の話とは(設定上状況の相違はあっても)本質的に同じだと考えてよいでしょうか?

永井:
「私はサッカー選手であり、実際にプレーしていた」ともちろん言えますが、いうまでもなくそれは「偽」です。実際にはしてない(という想定である)ので。

真彦:
②第5回 第34段落 
(a)引用文中の、「私の内なる多様なもの」とは、私が私の内にもつところの、(諸対象に対応するものとしての、従って私自身そのものではない)諸表象ということではなく、私を形成している諸部分、その意味で私自身であるところの多様なものであって、かつ私の内なるもの(身体などのように外的ではない)を指しているのでしょうか?

永井:
「私が表象している」という意味です。

真彦:
(b)「自分のことをただ結合力としてだけ意識している」「自発性を表象することはできる」について。
このほか、第3段落の註*では、「私は存在するということ(、、、、、)だけを意識するのである。この表象[私は存在するということ(、、、、、)の]は思考(、、)であって直観(、、)ではない。」ともあるので、結合力を意識し、表象するのは、悟性の働きによるということになる。
しかし、ただ単純に結合力を意識し、表象するのではなく、ここでいわれているのは、それを「自分のことだ」として意識し、表象するということである。「自分のことである」として意識・表象するということ、「私」は存在するということを意識すること、は悟性・思考の機能だけでは出来ないことではないか?悟性に出来るのは、結合力・統一する作用の発揮とその表象ということまでであって、悟性だけでは、それが「自分の」働きであるとか、また、それが「自分」である・「私」であるとかを意識することはできないのでは?つまり、「私が私を考える」ということが、すでに、(カテゴリーによる)思考だけでは出来ないことなのではないか?

永井:
これは私もそう思いますが、カントにおいては、結合力・統一する作用の発揮の表象は直接的に「自己意識」ですね。むしろ自己意識なしには総合できないと考えているふしがあります。

※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第5回、第6回


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?