質問(24/7/25講義)

greatminer:
5章の23節から25節に関して質問させていただきます(聞き逃しであったり前後の文脈を読み取れていなかったら、申し訳ございません)。

 (1) 回数を数えることにつき、「それしかなさの連結(という矛盾)」により可能となるが、それに加えて、区切れた同型のものが複数存在することや区切れた同型のことが繰り返し起こることという事実の存在も必要であるとされています。
前者は、独在性と累進構造の問題が回数を数えるという場面にも現れるということで、後者はそれだけではない事象内容的な問題に関わるものと理解しましたが、逆に、<私>や<今>の問題についても(又は問題そのものというより、問題を把握する際には)、何らかの事象内容が関わる、ということにはならないでしょうか。
例えば、「私」や「今」という語を他人や他時点にとっても同じものとして当てはめる(さらに、同様のことを繰り返し行える)ということを行おうとすると、当てはめる先のものも何らか内容的に同じものであることが必要だ、ということにはならないでしょうか。(そこで同じであるのは「それしかなさ」「現に、端的に」ということだけだ、と理解しているつもりではおりましたが、数えるという場面についての議論を聞くと、それだけでよいのか疑問があるように感じてしまったので、お伺いできれば幸いです。)

(2) (1)のように感じたところはあったものの、記憶について考えると、(仮に記憶が成り立つのであれば)過去に起こったことを現在記憶しているというだけで、かつては端的に起こったことであるが現在端的に起こっていることではない、と把握していることになると思われるので、やはり<今>の問題は事象内容と無関係に把握できる(過去と今とで同型の出来事が起こっているかどうかなどは関係ない)、ということになるでしょうか。

(3) 関連して、<今>の問題や記憶の問題が(1)のような疑問(何らか内容的に同じである必要がないかどうか)と関係ないと言えるために、「たとえ内容的に全くバラバラなことが起こりつづけるような世界(記憶内容)であっても、<今>の問題や記憶は成り立つ」と言える必要があるのかどうか、と思ったのですが、そのようなことは必要なく、(2)で書いたように記憶が成り立てば十分だということになるでしょうか。

永井:
単純端的にお答えしますと、(2)が正しいと思います。
(3)については後からはそうなります。記憶概念がちゃんと成立してから後では。逆に言えばそうならないと記憶が成り立っているといえない、と。

真彦:
①第18段落 二番目の引用文中の「時間は、内官(内的感覚)の多様なものの、すなわちすべての表象の結合の形式的条件として、あるアプリオリな多様なものをその純粋直観の内に含んでいる。」について。
「あるアプリオリな多様なもの」とはどういうもののことをいっているのでしょうか?

永井:
おそらく、バラバラのもの、違うもの、という意味だろうと思います。次々に色々なことが起こる、という単純なはなしです。アプリオリであるのは、そうであらざるをえないからでしょう。

真彦:
②第29段落 「否定を世界の事象内容の側から捉えることは決してできない(のは存在の場合がそうであったのと同様である)」について。しかし、一方、「存在」の場合について、『哲学の密かな闘い』p.227、2行目~で次のように言われている。「・・・この「百ターレル」の例は、単なる貨幣量が、「神」や「私」のような世界の内容物に尽きない超越者の比喩になっていることに注意しなければならない。もしそうでないとすれば、「神」や「私」の場合とは違って、現実的な百ターレルと可能的な百ターレルの間には、世界の中に内容的規定による判別基準があって、その「存在」の意味はそれに尽きているからである。」「存在」には、世界内における内容的規定による判別基準がある。同様に、「否定」もまた、世界内において使用される場合には、内容的に規定されることになる(その意味では世界の事象内容の側から捉えられていることになる)、と考えてよいでしょうか?

永井:
そう考えてもいいとは思いますが、世界の事象内容の側から捉えられる場合でもやはり、それだけで否定や存在(sein)の意味そのものが理解されるわけではない、と捉えたほうがセンスがいいとは思います。

※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第5回、第6回


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