質問(24/7/11講義)※追記あり

実篤:
「カントの誤診」第5回19段落についての質問です。
ここでは、独在性が効力を発揮するためにはある条件が必要であるということがいわれています。つまり、同じ記憶をもつ複数の主体の人がいることを想定したとき、同じ記憶を持っていたとしても、経験が現実に与えられているほうが私であるというように自他を区別することができるとはいえ、この区別はたんにむきだしの独在性による区別ではない、ということがいわれています。その理由は、このとき自他の区別の徴表とされている独在性は持続しているものとされてしまっているからというものです。そこで独在性を持続させるために必要とされるのが、その独在性が短期記憶および感覚的連続性と統一していることでした。
ここでいわれていることを正確に理解したいとおもい質問しています。次のような理解でよろしいでしょうか。
まず、独在性そのものというのは、端的に唯一与えられているものであるから、そもそも比較しようがないものであり、比較する術もない。だから、先ほどの想定のなかでは、お互いの独在性を比較できてしまっているかのようにみえていたとしても、これはじっさいには独在性そのものではなく、独在性そのものと結びついた、記憶内容とは意味的に関連のない事柄(身体感覚や気分など)を経験しているということによって区別をしているということにならざるをえない。このとき、こうした身体感覚や気分などは、意味的連関をもたないにもかかわらず、段落16でいわれているような記憶の性質ゆえに覚えていることができる、すなわち持続することができる。それゆえ、独在性そのものの存在が、持続するもののなかで仄めかされることになり、持続するものとしてそれをお互いに比較することができているのである。

永井:
「独在性そのものというのは、端的に唯一与えられているものであるから、そもそも比較しようがないものであり、比較する術もない。」は、当事者の立場に立てばそうですが、それについて哲学的に議論している立場からは、お互いの独在性を比較できてしまっているかのようにみえていたとしても何の問題もありません。これは独在性という一般的な概念を使ったその事柄についての一般的な議論ですから。

真彦:
以下、7/11講義の質問です。宜しく願います。
①第16段落 註*
 「これは「私は考える」を介さない「私は思う」の直接的結合であるともいえる(また、第一版の最初の二つの総合だともいえる)。もちろん、後から反省されれば、それは「私は考える」に包摂されうる(、、)のではあるが。」(および、第17段落 註* 「「思う」だけの結合も後から「考える」で纏めうる(、、)」)について。
「後から反省されれば、それは「私は考える」に包摂されうる(、、)のではある」といえるかは怪しい、カテゴリカルに総合されるわけではない、と言えると思いますが、それでも、ここでは一応、「後から反省されれば、それは「私は考える」に包摂されうる(、、)」とされてはいます。これは、「私は考える」の範囲を広く解して、「現在に直接に繫がる短期記憶と、それと「一つ」になっている(あるいはなりうる)身体感覚や気分や欲求や意図や…の持続(すなわちまた記憶)」(第19段落)との繋がりがあること、と考えれば、「後から反省されれば、それは「私は考える」に包摂されうる」と言ってよい、ということでしょうか?あるいは、別の繋がり方を含意しているのでしょうか?

永井:
いや、ふつうに「考える」ことで包摂することも「できる」ということです。

真彦:
どうやると「できる」のか、よくわかりません。たとえば、ある時点で何の脈絡もなく頭痛が起こり、また別の時点で何の脈絡もなく聞いたこともないような大きな音がした、ということがあった場合、両者の間に直接的な連関は(ともに「思う」であるということをのぞいては)全くないが、後から「両者とも起こった時には同じ自分の部屋の光景が見えていた」ということが想起されれば、「同じ場所において前後して起こったことである」という結びつきができる。「思う」の裏打ちがあるならば、そのようなやり方で、直接的連関のないことの間にもなんらかの内容的連関を見出すことが可能である、ということでしょうか?
あるいは、いかなる表象も、あとからすれば、他の表象(が示すもの)との間に、しかるべき実在的因果連関を見いだす(それができなければ「構築する」)ことが可能である、ということでしょうか?(例えば、「脈絡なく起こった頭痛」の場合でいえば、遺伝、数十年前に受けた打撲、精神的ストレス、などが原因であるとする、など。)

永井:
前者のほうが(一般化可能と見れば)正しく、後者は(限定されすぎという点で)間違いです。後者のようなことももちろんありうるでしょうけど、そのような限定はまったく必要ないです。

真彦:
②第20段落
「・・その差異が現れるのは、その思考を現実に(、、、)持つのはどちらであるか、といった点においてではなく(それなら両方でありうるから)・・」について。
「それなら両方でありうる」というのはどういうことでしょうか?(「共通の記憶以外の、現在に直接に繫がる短期記憶と、それと「一つ」になっている(あるいはなりうる)身体感覚や気分や欲求や意図や…の持続(すなわちまた記憶)」を現実に持つか持たないか、ということを考慮しない水準では、両方(私も彼も)が当の思考を「それぞれにとって現実に」もつ、というところまでしか言えない(というところまでなら言える)、ということ?)

永井:
彼の思考もまた(その思考だけ捉えれば)私が現実に持つからです。なぜなら同じ思考なので。

真彦:
③第21段落 
(a) 註* で、「もともと何らかの内容の繋がりに依存せずに持続することができないものが、まだ存在しているほうの内容の繋がりを頼りに生き残るのである。」といわれており、(第9段落の内容なども併せて考えると、)記憶、思想、思考、現在に直接に繫がる短期記憶、感覚・感情・欲求・意図・等々の、私とある人が共有しているものがあったなら、「その人はすでにして私である」と言え、また、「私が突然死んだならば、私はその人になる」とも言える、ということになると考えましたが、だとすると、いかに些細なことであっても何らか共有するものがあれば、その人はすでにして私であるとも言え、また、私が突然死んだならば私はその人になる、といいうることになるが、そう考えてよいのか、あるいは、そうではなく何でもよいというわけではないとすると、どういうものが、「彼が私である(および、となる)」ための共有物となりえ、何がなりえないのか?

永井:
些細なことでは駄目です。私を私たらしめているような内容、つまり本質的な内容でないと。

真彦:
●第5回 第21段落の質問に関して。
どういうものが「彼が私である(および、となる)」ための共有物となりえ何がなりえないのか、「私を私たらしめているような内容、つまり本質的な内容」とはどういう内容であるのか、がやはり理解できずにおります。
a)もし、具体的にどのような内容であるかによって、かくかくの内容である故に私の本質である、しかじかの内容であるからそうでない些細なものである、という具合に区別されるのであれば、それは何らかの価値基準によるか、絶対的な何らかの内容自体に関する基準があるかどちらかであると思いますが、「価値判断等々が介入する余地はありません。ただたんにそれが与えられてあるというだけです。」と回答いただき、前者はすでに否定されている。後者であるとした場合も、そのような基準になりうるものはないのではないか。
b)あるいは、そうではなく、具体的にどのような内容であるかには関係なく、ただ量的に多いこと、つまり、思想であれば、それを私が保持していた期間が長いこと、(経歴の)記憶であれば、長期間にわたる経歴の記憶であること、が、「私を私たらしめているような内容、つまり本質的な内容」である、ということになるのでしょうか?
c)あるいは、(期間の長さは或る程度の目安になるとしても) 何が「私を私たらしめているような思想内容・経歴の記憶内容、つまり本質的な思想内容・経歴の記憶内容」であるかはオープンであって、「これこれの性質を具備した内容が、私を私たらしめているような思想内容・経歴の記憶内容、つまり本質的な思想内容・経歴の記憶内容であって、そうでないものは本質的ではない」といえるようなものはなく、ただ、「もし私を私たらしめているような、本質といってよいものがあるとするなら」、それを私と共有している人物について、「彼は私である」と言え「彼は私となりうる」のだ、とだけいっている(実際にそのようなものがあるかはわからない)、ということでしょうか?しかし、そうだとすると、実際のところ、本質であるか否かは直感的に決まることになるしかないのではないか、とも思えます。
d)あるいは、第32段落に言われているような、「対象化して取り扱うことのできない即自態」レベルの経歴の記憶内容、同様に即自態レベルの思想内容が、「私を私たらしめているような内容、つまり本質的な内容」であり、「彼が私である、および、となる」ための共有物となりえる、ということになるのでしょうか?
しかし、そうすると今度は、嘘や冗談ではありえない、端的な実存にべったり張り付いた内容でありさえすれば、私を私たらしめている本質的な内容であることになってしまう。それでは駄目だとすれば、その中でなお或るものについてのみ本質的だといえるということになる。そうすると、また、その中でどういうものが「彼が私である、および、となる」ための共有物となるに足る本質的なものなのかが問題とならざるをえないのではないか。
そうではなく、そのようなものは、何らかの根拠や基準によって決まるのではなく、「なぜか」それを私であるとし、それを基盤として生きざるをえず、それに依拠して存在することになってしまっている、というような意味で「ただたんにそれが与えられてある」というようなもの、ということなのでしょうか?

永井:
この問題はぜんぜん難しくない、あまりにも簡単な問題です。「私」で考えるからわかりにくくなるのはないでしょうか。その人をその人たらしめている本質的な内容で考えてみたらどうでしょうか。そういうものはもちろんあるでしょうけれど、当然、一義的にきまるわけではありません。(人ではなく物についても同じことは言えます。あるいは国とかその種のものについても。)

真彦:

「私を私たらしめているような内容、つまり本質的な内容」とはどういう内容であるのかが、やはりよくわかりませんでした。
というのは、思想や記憶といったものの内容自体によって、しかも他の誰かと共有されうるような内容そのことによって、「その内容こそが私である」とされうるとすれば、それは、私本人がそうだ(その内容こそが自分だ)と(無意識的であれ)判断する内容であるしかないと思うからです。そうだとすると、その判断は、価値観や信念や印象に左右されるであろうし、そうである以上、のちに判断・認識が変わって、「あの思想内容、あの経験内容こそが私だと考えていたが、いまでは、全くあんな内容は私の本質にかかわっていないどうでもよいことであるとわかった、たとえ、あれが実は経験されておらず記憶違いであるとしても、私であることに変わりない。」ということになりうるのではないでしょうか?

永井:これはまったく違います。価値判断等々が介入する余地はありません。ただたんにそれが与えられてあるというだけです。

真彦:また、そのとき、既に同時に、新たな、「私を私たらしめているような内容、つまり本質的な内容」が(無意識的であれ)判断されているかもしれないが、最初の内容を私の本質だとしたことが誤りだったことに変わりはない。従って、誰かをして「彼が私である(および、となる)」とすることの根拠は常に不安定であって、確定的にそう言うことはできないことになるのではないでしょうか?

永井:もちろん確定しません。むしろ量的な問題が大きいと思いますが、それを比較する視点も現実には存在しませんから。私の死後に私を受け継ぐ二人の人がいることは問題なく可能です。もちろんそれを知れる視点が実在するわけではありません。

真彦:
(c)註** について。以下のような読み方でよいでしょうか?
「この場合、〈私〉であることの繋がりは、・・・」の、「〈私〉であることの繋がり」とは、私が死んで、私がその人になる(その人が私になる)ということがおきたあとの、その人であり私である人における、「〈私〉であることの繋がり」のことであり、「前注の表現では「その記憶以外の他の持続するもの」(本文によればその「持続するもの」は「感覚や感情や欲求や意図や…」であるが)の存在」とは、その「その人であり私である人」における、そうなったあとの「その記憶以外の他の持続するもの」(「感覚や感情や欲求や意図や…」)のことである。

永井:
そうです。

真彦:
④第23段落
「〈私〉も〈今〉も、カテゴリーに従って成立して性質をもったり変化したり他と関係したりするような諸事象の仲間ではない。だから、それらはカント風にいえば「規定され」ておらず、その意味で実在しない(だから時間の中でどこかへ移動するといったようなことはできない)・・・」とあり、また、「・・時間は、統一されて持続する主観(それ自体が客観的世界の持続と相関的にしかありえない)と相関的にしか実在できない・・」とあり、持続する私は、時間の「中」にあるのではなく、時間と相関的にある、ということであろうと解しましたが、その一方で、「主観が統一されて持続する」とは、つまり、〈私〉が内容的繋がりに乗って持続するということであり、また、内容的繋がりは時間の「中」で成立していくのであるから、その内容に結合している(あるいはその内容的繋がり自体ともいいうる)持続的〈私〉もまた、時間の「中」にあるものとみなさざるを得ないという側面もあるのではないでしょうか?

永井:
カントはそういう言い方を認めないでしょうけど、通常の常識的理解の水準に戻せば、そのように語ってもよいとは思います。

真彦:
7/4講義に関する当方からの質問の①、
「・・・身体に関係する記憶内容は、「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ところの、記憶の「根幹的内容」にはなりえない、と理解してよいでしょうか?」に対していただいた回答、「もちろん、内容的には、身体に関係する記憶内容が、「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ところの、記憶の「根幹的内容」と重なることは十分にありえますよ。しかし、それが「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ということはない、という話です。」(永井)について、質問です。以下のような理解でよいのでしょうか?誤りありましたらご指摘いただきたくお願いします。
身体に関係する記憶内容は、それ自体としては「根幹的内容」ではないし、「私のものでないということはありえない」とはいえず、「その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ということにもならないが、「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定しているところの、記憶の根幹的内容となっているもの」とともにひとつの記憶を成していることはありうる、ということでしょうか?(たとえば、「数年前、Aという映画を新宿の映画館で最前列に座って鑑賞し、大変な衝撃を受けた」という一つの記憶をもっているとして、「大変な衝撃を受けた」は「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ところの、記憶の「根幹的内容」となりうる、しかし、そうであったとしても、「数年前、Aという映画を新宿の映画館で最前列に座って鑑賞し」という部分については、「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ということはない。)

永井:
「身体に関係する」とは「その身体についている目が見た」とかそういう意味ですよ。ですから、身体に関係しているというそのことによって根幹的内容となりはしませんが、その内容が根幹的内容でありうることはもちろんです。ここは全然簡単な、あたりまえの話では? 映画館の例についても同じです。私の目が見たのでなければその記憶は「偽である」というだけのことです。身体との関係において。

※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第5回、第6回


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