質問(23/7/20講義)

真彦:①黒本p.17、6行目~「哲学的」という表現について。「ここに飛躍が介在していることを理解することは哲学的に非常に重要である。・・・ずれを認識することが、ここでの哲学的なポイントだからだ。」(二か所の「哲学的」に傍点)とあり、「哲学的」という表現がされています。私は、例えば、「〇〇は哲学的に重要で・・」とか「〇〇は哲学的な問題には影響しない・・」といったような表現があった場合に、どういう種類の重要性について言われているのか、どういう種類の問題が意味されているのかが捉えきれず、理解がうまくいかないことが間々あります。
むろん、一意的に固定しているわけではないのであって、文脈によって何を意味しているか、何を強調しているかは違ってくるとは思いますが、この場合の「哲学的」は、どういった観点のことを指しているのでしょうか?

永井:一般的に言うと、〈私〉が存在するという事実自体には、とくに「哲学的」な重要性があるわけではない、ということとの対比です。その事実を理解し、とくに言語的に表現しようとする際に、哲学的な問題が生じる。

真彦:②黒本p.20,12行目、「A関係」について。(どこかで書いておられたら申し訳ありませんが、)この「A関係」は、「A変化」および「その時点にとってのA事実(いわば《A事実》)」とはどういう違いがあるのでしょうか?

永井
何度も繰り返し書いていますが、ポイントはむしろ、「A関係」「A変化」と「A事実」の対比にあります。前者は一般的な未来現在過去の関係及びその変化であり、A事実は実際にここが端的な現在であるという事実です。

スラベス
講義の本筋ではなくて恐縮です。黒本13頁の議論に関連して、「教育はすべて対機説法である」と仰っていて、これは先生の哲学を理解する鍵の一つではないかと思いました。今回の講義では、独在性の哲学を教える上での「教育的」配慮に何度か言及されていましたが、永井先生にとって、私たちに独在性を教える動機は何でしょうか。(職業教育者をやって来られたからなのか。それ以外にもあるのか。)

永井
この問題がどう考えても非常に興味深い問題で、それにもかかわらず何故かほとんど知られていないからです。

リョウ
黒本p.11「われわれの世界構成のカテゴリカルな要求である」について。世界の二面性、つまり、「一面ではその中の一人だけが現実に「世界がそこから開けている唯一の原点である」ような世界なのだが、他面ではだれにとっても同様にその人自身が「世界がそこから開けている唯一の原点である」ような世界」(黒本p.11 第1段落2-3行目)を認め、そのようなものとして考えることが「われわれの世界構成のカテゴリカルな要求」(同. 最終行)だとあります。独在論の内容を検討する以前の段階として、このような世界の二面性の想定(あるいはp37注3で記されている「言語の成立の本質的な条件」という表現に見られる、言語そのものに対する想定)の妥当性が気になってしまいます。独在論の内容をめぐる入門講義という性質上(、対機説法として、)ここで議論されるべきでない側面を大いに含むことは承知しておりますが、
質問①:「世界の二面性」(という前提)を有効に成立させている根拠はどこで保証されているのか、に関してご教示いただけますと幸いです。

永井
ここはあまり対機説法ではなく、読者の理解水準を想定せずに真実を述べています。〈私〉が存在しなくても、人称というカテゴリーの成立とともに世界のこの二面構造がすでに導入されてしまう、そしてそれは「様相」というカテゴリーの変様態である、ということで、WEB春秋連載の今回で詳しく論じています。

※『〈私〉の哲学をアップデートする』(黒本) 序章、および『〈私〉の哲学を哲学する』(白本)序章


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