質問(23/2/8講義②)

真彦
①p.227 段落8の註* 
最後の文、「・・・いずれにせよ自己意識は心理現象ではなく、存在論的な現象でしかありえないことになる」について。
その前の文の、「…といった種類の自己理解と・・・という自己理解を併せ持たねばならず・・」や「…この接合を対象化してあからさまに意識していることが・・」という部分にある「自己理解」「意識している」は、心理現象が混じってといえないでしょうか?もっとも、「自己理解」の方は「「私」が成立するためには」にかかっているのであって、存在論的な現象としての自己意識には必ずしも必要ではないとしても、また、心理的現象というような水準のものではなく、存在と直結した通奏低音的な捉え方、といったような意味あいのものだとしても、少なくとも「対象化してあからさまに意識している」の方には心理的働きは必要であって、「自己意識は存在論的現象の心理的把握である」ということになるのではないでしょうか?

永井:意識ですから心理現象が混じっているのはもちろんです。

真彦
③p.229 段落9の註**
「人は必ず心的開闢性をもつ」について。
なぜ「心的」開闢なのでしょうか?本筋からいえば、ただの「開闢そのもの性」でよいが、神との比較上、人が人格的個体性をもつものとして前提されていて、「開闢そのもの」は「心的開闢」として限定された在り方になるから、という理解・読み方でよいでしょうか?

永井:よいと思います。

※哲学探究3 終章 第一節


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