質問(23/2/22講義①)

大登
段落26でのしかなさに記憶が介在することで、その記憶がじつは私が体験しなかったかもしれないという誤同定可能性に開かれるという議論についての確認です。しかなさのみにに依拠している場合には、なんであれ何かが体験されているならそれを体験しているのは私だという誤同定不可能性があると言える。しかし、そこに記憶が介在する、つまり過去の経験を思い出して「私はそれを体験した」と判断するときには、しかなさだけでなく記憶に依拠してそれが判断されることになり、そうなると、じつは「それ」を体験しなかったのではないかと疑うことができるようになるだけでなく、「私」がそれを体験しなかったのではないかとも疑うことができるようになる。しかなさだけに依拠している場合は、「ように見える」という領域が開かれていなかったが、記憶が介在することで「もとになる対象」と「その現象形態」という対比が介在することになる。この「対象」と「現象」の区別が可能になることに、訂正不可能性や誤同定不可能性の源泉があると考えても良いでしょうか。

永井:その通りです。

直之
超越的な<私>の矛は、第二基準の記憶を媒介して未来の<私>と繋がっているが故に、超越論的な盾を超えることが出来ないと理解したのですが、それでもなお、<私>は超越的な現象であるが故に、次の瞬間にもこの<私>が現象している人は<私>でなくなることはあり得ることだし、他の人が<私>になることも原理的に可能だろうと感じてしまいます。<私>が現象してしまったときに、<私>が現象したことを内側から把握するのに用いている認識の枠組みによる世界の把握の仕方が、この客観的な世界や私の精神や身体の在り方を最深から規定しているように思います。
しかし、<私>が現象する世界は、このような世界でなくても良かったし、論理構造もこのような在り方をしていなくても良かったのではないかと思います(超越論的な枠組みへの超越論的な懐疑とでも言えましょうか)。
<私>というのはその意味で、超越論的な盾とは無関係に現象するし、やはり超越論的な盾を超えざるを得ない、とても不思議な現象(説明のつかない現象)と思います。このような在り方を許すのは、やはり神というか、世界の枠組みを超えた無秩序なものの力を感じてしまいます。この世界内で想定されうるいわゆる神には<私>を創る能力は無いと思いますが、それでもなお<私>が現象してしまっている。この不条理さについて永井先生はどのようにお考えになられますか?

永井:次の瞬間に他の人が<私>になっても、そうなったことは決してわかりません。それゆえに、決してそうなりません。この「それゆえに」が超越論的です。これが超越的な矛を防がざるをえず、初発の<私>の現象の不条理さは、なぜかその後隠蔽され続けることになります。世界はたいへん不思議な構造をしています。

そばがき
1、『独超矛盾(独矛超盾)』P.274と風間質問について。
 ・『独超矛盾(独矛超盾)』p.274によれば、「分裂してただのそばがきになった方が生き残り〈私〉である方のそばがきが死んだら、 数時間後以内ならば、ただのそばがきが〈私〉になる。」という理解でよろしいでしょうか?この理解で合っているならば、
1-1、数時間後ではなく、たとえば数年間〈私〉であるそばがきが生きてそれから死んだら、議論は変わりますか?
記憶内容は、数年分の異なる人生を反映するでしょうから、数年後に〈私〉である方のそばがきが死んだら、その後生き残るただのそばがきは、もはや〈私〉になることはできないのでは?もしも数年後、生き残る方のそばがきが〈私〉になることができないなら、5時間後でもできないのでは?
1-2、分裂して生き残るそばがきは、〈私〉になるのではなく、《私》になるのでは?やはり〈私〉なのでしょうか?
1-3、分裂5時間後に〈私〉である方のそばがきが死んだら、生き残る方のただのそばがきが〈私〉になる。というのは、語りえぬ、無我(最終的に実存して突出する一方向的な無内包の現実性)と、「持続するとされる〈私〉」とが、究極的に矛盾していることにならないでしょうか?
1-4、風間質問においては、「語れる」という答と「語れない」という答の両方があり得る。と理解しておりますが、ここで両方の答があり得ることが、語りえぬ無我(最終的に実存して突出する一方向的な無内包の現実性)と、〈私〉との間にも、矛盾があることを示していないでしょうか?風間質問において、語れる〈私〉と語りえない〈私〉とは、やはり矛盾しているのではないでしょうか?
1-5、分裂後に生き残るただのそばがきが〈私〉になるとしても、その〈私〉はある意味で存在しないのでは?つまり、語りえぬ最終的実存としての一方向的な無内包の現実性は〈死ぬ〉のでは?
「それがなくては全てがなくなるのと同じであるような実存」はその通り〈なくなってしまう(亡くなってしまう)〉のでは?
さらにはつまり、分裂後に生き残るただのそばがきに〈私〉になってしまわれたら、最終的に純粋な意味で、語りえぬ〈私〉は〈死ぬ〉のでは?
1-6、分裂後に生き残るただのそばがきが〈私〉になることは、語りえぬ一方向的な最終的実存としての無内包の現実性としての〈私〉が〈生き続ける〉こととは違うのでは?
1-7、分裂ということが、〈私〉を生み続けるのならば、5時間ごとに分裂を繰り返し続ければ、〈私〉は「永久に生き続ける」?一方で、語りえぬ〈私〉は初回の分裂後にいずれ〈死ぬ〉?
分裂ということが、心理的連続体の複製を作るという意味での分裂でもよいならば、心理的連続体としてのそばがきが分裂して、〈私〉である方の心理的連続体が5時間後に死んだ場合、もし、生き残る方のただのそばがきの心理的連続体がインターネット上にアップロードされたら、そのアップロードされたそばがきの心理的複製体は、〈私〉として生き続ける?
〈私〉になってインターネット上に持続し続けるかもしれないが、やはり語りえぬ〈私〉は〈死ぬ〉?

永井
1-1、それらはすべて最初のパーフィットが答えた通り程度問題だと思います。
1-2、ここでその区別を持ち出すのは適切とはいえません。最初から《私》であっても、問題は同じなので。
1-3、はい、もともとこの世界の成り立ちには矛盾が内在していると思います。
1-4、はい、矛盾していると思います。
1-5、そうだとすれば、われわれは(平常でも)つねに死につつ存在していることになると思います。そして、そうだともいえると思います。
1-6、語りえぬ一方向的な最終的実存としての無内包の現実性としての〈私〉が〈生き続ける〉ことは実はありえないのであろうと思われます。
1-7、永久に生き続けることには何の問題もありません。

淳生
私が分裂し、その直後に〈私〉の方が死に、〈私〉でない方が生き残るという思考実験について、その死後は〈私〉でない(なかった)方が、両方が生きていた期間の記憶を喪失するとしても〈私〉として生き続ける(ともいえる)とのことですが、また、両方が生きていた期間が長くなる(喪失が大きくなる)ほど「生き続け度」が薄くなる(2月23日0時58分 塾生からの質問への返答ツイッター)とのことです。
これは、両方が生きていた期間は独在性原理(ライプニッツ原理)が優勢だったのが、死後は超越論的・カント原理が巻き返す(分裂までの記憶等の共有・連関が優勢になる)ということでしょうか。
そうすると(さらに思考実験ですが)、分裂ではなく、全く同じ物理的(および心理的?)組成を持つ初めから別の2人を想定した場合、各々に独在性だけはあり記憶等の共有・連関はない(カント原理が働かない)ので、上記思考実験とは違い片方=〈私〉が死んでも残りの方が〈私〉として生き続ける(〈私〉になる)ことはないのでは。
もはや私の理解を超えていますが、以下は全く私の勝手な感想です。
その1:分裂前の山括弧性(というべきもの?)が人間の分裂後両方に引き継がれ、片方が死んでも残りの方に残っているのでは。もちろん、分裂時点では山括弧性ゆえに〈私〉がどちらの方になる(なった)のかは偶然です。
その2:やはり〈私〉は、その身体の死と運命を共にするけれど、(身体の)死後どうなるかは一切不明。なので、もう片方として生き続ける?可能性もあるのでは。

永井:「各々に独在性だけはあり記憶等の共有・連関はない…」とか「山括弧性(というべきもの?)が人間の分裂後両方に引き継がれ…」といった想定の意味が理解できません。「独在性」や「山括弧性」を「各々」や「両方」が持つという想定はそもそも意味をなさないと思いますが。

※哲学探究3 終章 第Ⅰ節~第Ⅱ節


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