質問(23/2/22講義②)

みや竹
質問1
274頁3行目以下の想定の意味の確認です。
たとえば、2023年4月1日正午に私(みや竹)がRとLに対等分裂し、分裂後Rがなぜか〈私〉だったケースで、同日午後1時にRが死んでしまった場合、午後1時まではRが〈私〉で、午後1時以降はLが〈私〉に「なる」、ということでしょうか。つまり、同日午後零時半時点の(〈今〉が同日午後零時半に来ている時の)〈私〉はRで、同日午後1時半時点の〈私〉はL、ということでしょうか。つまり、「分裂前の時点で、分裂前のその時点から見て、分裂後の(=未来の)RとLのどちらを私と呼ぶべきか」というような話ではなく、実際に、同日午後零時半時点の〈私〉はRで、同日午後1時半時点の〈私〉はL、という話なのでしょうか。

永井:午後1時まではRが〈私〉で、午後1時以降はLが〈私〉に「なる」、ともいえますが、あくまでも正午までもどって「なる」ので、正午から1時間は抜けます。

みや竹
質問2
今は間違いなくみや竹が〈私〉です(隣の人が叩かれても痛くないがみや竹が叩かれると痛い)。
明日の朝も、記憶を失ったり死んだりしない限り、間違いなくみや竹が〈私〉でしょう。
では、寝てる間に記憶を完全に失えば、明日の朝、その記憶を失ったみや竹は〈私〉ではないのでしょうか(明日の朝、みや竹が叩かれても、世界は痛くないのでしょうか)。
(もちろん永井に置き換えてお考えください。)

永井:寝てる間に記憶を完全に失えば、明日の朝、その記憶を失った「みや竹」なるものは存在しません。「みや竹」によって連続する身体を指しているとすれば、それはもちろん存在しますが。「明日の朝、みや竹が叩かれれば、もちろんその人は(その人の〈私〉は)痛いでしょうから、彼にとって「世界は痛い」とも言えますが、今のみや竹が未来のその状況に関してそれを言うことはできません。

みや竹
質問3
質問2の答えが「その記憶を失ったみや竹は〈私〉ではない」だとした場合、では、記憶を半分失ったらどうなのでしょうか。失う記憶の量によって、どこかで、翌朝〈私〉ではなくなる点があるのでしょうか。それとも何パーセントかの確率で、〈私〉であったりなかったりするのでしょうか。〈私〉であるか否かは0か1なので、失う記憶の量によって「〈私〉度」が上がったり下がったりする、という答えはあり得ないと思うのですが・・。

永井:それが「ありうる」というのがパーフィットな主張でした。持続が介入するかぎり〈私〉であるか否かは0か1ではないことになります。これはある特定の時点(の現在)において〈私〉であるか否かが0か1であるのと(潜在的に)対立していることになります。

みや竹
質問4
質問2の答えが「その記憶を失ったみや竹は〈私〉ではない」だとした場合、では、その「明日の朝」の世界に(アクチュアルな)〈私〉はいないのでしょうか。それとも、いるかいないかは「なってみなければわからない」のでしょうか。それとも、いるかいないかは「なってもわからない」のでしょうか。

永井:なってみればわかるの「わかる」の意味を今確定することはできないでしょう。それがありありとわかる一人の人がその時いたとしても、それは今の私には関係のない(関係づけられない)話でしょう。

みや竹
質問5
今私が死んで、1年後に私の記憶を継ぐ者が現れたとして、そいつが、その時点で〈私〉なのか否かは、(その時点に)「なってみなければわからない」のでしょうか。それとも「なってもわからない」のでしょうか。それとも「他に候補がいない限り確実に〈私〉」なのでしょうか。

永井:この場合の同様に「なってみればわかる」の「わかる」の意味を今理解することはできないと思います。「他に候補がいない限り確実に〈私〉」のほうの意味は今すでに確定しています。
(質問を離れて私見を付け足すならば、その人が〈私〉でない場合の想定には、必ず暗黙の裡に他の候補ーその状況を外から観察している何かーの存在が想定されているように思われます。その不可避的な想定こそが「超越論的主観性」の観念の起源だと思われますが、そこには独在性の要素が主要なものとして含まれざるをえないと同時に、現在の私からの何らかの持続の要素も持ち込まれざるをえないと思われます。)

みや竹
質問6
質問4の答えが「なってみなければわからない」又は「なってもわからない」だとした場合、明日の朝も〈私〉であることの「絶対確実性」と、この想定における「なってみなければわからない性(なってもわからない性)」の違いの原因は何なのでしょうか。

永井:〈私〉はその持続にかんするかぎり、もっぱら記憶による(カントの言い方だと「総合」「統一」による)ということでしょう。(また質問を離れて私見を付け足すならば、そのうえ、実際には、この「総合」「統一」が為された視点からしか〈私〉の存在そのものも認識できない、という構造になっているようです。)

みや竹
質問7
質問4の答えが「他に候補がいない限り確実に〈私〉」だとした場合、候補が複数いた場合にどの候補が実際に〈私〉になるかは偶然が決めるのでしょうか。

永井:偶然が決めるという言い方は存在してしまった〈私〉の観点からの、いわばナイーヴな言い方で、それでも必ず皆同じようにそう思いもするのだ、という(この「同じさ」の)認識のほうが哲学的に一段階ソフィスティケートされているように思われます。とはいえナイーヴな「偶然性」の視点は不可欠ですが。

みや竹
また、10人候補がいて、継ぐ記憶が1年前に死んだ私と少しずつ異なる場合、1年前の私の記憶に一番近い人が〈私〉になる確率が高いのでしょうか。

永井:いいえ、ぜんぜん高くありません。関係のない二つの問題系なので。

※哲学探究3 終章 第Ⅰ節~第Ⅱ節


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