はじめてのメンタルケア

うまれてはじめてカウンセリングを受けた。
といっても、傾聴研修のプログラムとしの受診で、自らカウンセリングを希望して申し込んだものではないんだけどね。
ただ傾聴研修の一環ではあるけど、何を相談(話)してもいいとも言われた。
つまり通常のカウンセリングと同じというわけだ。

でもさ、そうは言われてもねぇ、とくに悩みがあるわけではないし。
まあ、あるといえば、あるんだけど・・・
これまで悩んだときは自己解決してきているわけで、改めて言われてもどんなふうに相談すればいいのやら?
あらためて、他者に相談するのもなかなか難しいことだと感じる。
つまりね、相談する悩みについてさ、悩みに至る経緯と自分の置かれていると状況、自分の言動、そこから派生する困難、その困難にたいする自分の思い(周囲の思い)を整理して自覚して正確にカウンセラー伝えなければ、「悩みの本質」は伝わらず、つまり悩み解決の解答やらヒントを引き出すことが難しいわけだ。

しかしさぁ、よく考えてみれば「悩みの整理と自覚」、そして、そこからおのずと「今後の方針」は浮かび上がるわけで、ほとんど解決したみたいなもの。カウンセリングを受ける必要もないのではないかな、と思ったりもする。

ワタシもカウンセラーではないのだけど、傾聴をするなかで悩みを相談される側にいて、上に書いたような「悩みの整理と自覚」ができてる人の話を聴くことはほとんどないわけだな。
自ら話しながら整理し自覚するという段階、ということなわけだ。
カウンセリングで、悩みを相談するってのは、「悩みの整理と自覚」をカウンセラーにお手伝いしてもらっているんだろうな。

ワタシの場合は、このことを知っていて自らできるので、今までカウンセリングを受けなかったかもしれない。
ただね、このことを頭で理解してやろうとしても、例えば鬱などの病になり実行できないこともあるだろうけどね。

でも、せっかくのなので、いま抱えているもやもやを話してみることにした。

もう少しまえなら、介護地獄の喘ぎ声をお聞かせできたのに、、、と切り出しながら、少し落ち着いてはきたものの介護とそこから派生するモヤモヤを話してみたのさ。

話していたら、カウンセラーさんが結構笑ってくれて、楽しいカウンセリングになって、ワタシも楽しませてもらった。

カウンセラーさん曰く、自分を俯瞰して話している、ということ、かなり視野があかるく、思索が深くあまりいないタイプということ。
自分(カウンセラーさん)が何かを話すと、診断され見抜かれそうで怖い(笑)みたいなことも言われてました。
(・・・とこんなことを言うカウンセラーも相当自信をもっているからこその発話なんだろけどさ。)

自分より凄い人はいくらでもいるよね、と謙遜ではなく言うと、
カウンセラーさんは「頭がいい人だと思います」だってさ、何も出ないよ。
なんて思いながら、ちょっといい気分でニヤついてる自分がいました。

でね、周囲の人がみんな、毒多さんのように、頭がいいわけじゃない、という自覚はある?、、、と訊くのさ。

この問には、「あっ」、と思った。
ワタシは自分のことを結構低く見積もっている。
ネットなんか泳いでいると、キレキレのヤツがいっぱいいるからね。
それに、どこかでそういうポジションのほうが楽なんだと思っているのか、それともできる限り他者を優秀だと思って、なにかを学び取ろうとするのが癖なのかもしれない。

ってなことを考えながら、今、周囲にいる人は、一応、自分と同じように鋭い(笑)感性と知性をもっていて、教え合う関係と思っている、と言ってはみたものの、もう少し本音を探っていた。
あ、もしかしたら教えることのほうが多いかなぁ?とか。
傾聴の通信なんかを自作して配布してたのも、同じレベルで話せる人が欲しかったって心理があるかもしれないなぁ。

そうなんだ、ワタシは突出しているんだ。思わず声が漏れてしまった。

そう思います。
人は生まれながらの定規をもっているのですが、メモリがミリ単位の人もいればセンチ単位、20センチ単位とか大雑把な人もいて、センチ単位の人は、ミリ単位のことがそもそも分からない。
毒多さんはミリより細かいかもしれない。
あんまりいないタイプですよね。

まあ、大雑把なほうが生きやすいってことはありますよね。と笑いながら言ってみると頷きながら、別にミリでも生きづらいと思ったことはないけどさ。

人間関係むずかしくないですか?と訊かれる。

そういえば、ほんとの仲間はどんどん減ってます。
最近、いろいろな旧友とも離れていることを思い浮かべる。
ちゃんと話せるのが、傾聴仲間の数人のほかいるかな?って感じだし。

そうだこれを話さなければ。
最近、介護の泣き言を書いたんだけど、それにとても丁寧なお見舞いのメールを頂いたんです。
でも、丁寧すぎて少し重く感じて。
お礼だけにしておけばいいものを、メールの主が傾聴仲間だったから、傾聴の場面に照らし合わせて「丁寧なのも話し手にとって少し重いのかもしれない」ってことを言ってしまったもんだから、その後関係がギクシャクしている気がして、もやもやしています。って言ってみたんだよ。
カウンセラーさんが、なんて言うかとても興味があったしさ。

するとね、「重い」ってどういう感じなんですか?って訊かれて、え、ええ〜そこ?、なんて、ちょっと狼狽えてしまってたの。
まさかそうくるとは思わなかった。
感性・感覚で「重い」って言葉が浮かんだわけで、どういう感じと言われても・・・
でも、自分のその時の感じた「何か」を、全然咀嚼できてないことに気付かされたわけ。
正直にいえば、この発想はなかった。もしかしてミクロン単位の定規ですか?と思ったけど言わなかったけどね。
それにしても、あの「重い」の中身はなんだったんだろう?
考え込んでしまった。
泣き言の再体験させられるようんで重かったのか?
それとも泣き言を固定化される気がして辛かったのか?

純粋に心配してメールした人にとっては「重い」と返されるのは辛いかもしれないよ、って、あんたの言う通りだよ。ホントだよね。そうなんだけど傾聴仲間だし〜。
なんでもない人には言わないけど、ずっといっしょにやってきた仲間だしさ。と言い訳(つまり自分だけの思い込み)を何度も言ってしまったよ。こいつさぁ、アタマ悪いんじゃないのさ、俯瞰。。
でも、ここなんだよね、ワタシの悪いところは。
言い訳じゃなくて、「重いと感じた」ことからつい、いろいろなベクトルに思索が走ってしまって、それが嬉しくてシェアしたくなる。
どこかで周囲もみんな同じく嬉しがってくれる思っている。

純粋なメールは純粋に受け取ればいいと思いますよ。ってカウンセラーさん、分かっているけどやめられないミリ男の運命なんだよね。

今のこのやり取りがとてもおもしろかったんで、持ち帰って仲間とのテーマにしてみます、って言ったら、また笑わせることができました。
やっぱ、お笑い芸人の血も消すことはできないね。

あと、弟が突然死したことも話してみたんだけど、そこから「死生観」に話題は広がり、なかなか面白い時間がもてました。
毒多さんは「死」について、いつも考えているんですね。それも珍しいって言われて、ホントですか?、と訊き返したんだけど、やはり普通じゃないらしい。

1時間とても楽しい時間がもてて、この人と純粋に友人になりたいと思ったんだけど、よくよく考えればカウンセリングの時間だったんだよね。
職業としてのカウンセラーって、話す相手にたいして普段から同じように対峙するのかな?
話をするだけなら友人とクライアントの区別がなくなるとか、、、傾聴士としての自分と普段の自分は別のわけだから、カウンセラーも同じかもしれないな。
でも、なんか自分より洞察力のある友人と話しているみたいで楽しかった。

そしてなんと言っても、今回わかったことは、ワタシは頭がよかったんだ、ってこと\(^o^)/爆!!

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毒多
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