トビタテ!留学JAPAN生に触発されて、「トビタトウ!留学JAPAN」という団体があれば、加入したい桐島です。
さて、トビタテ!の参加者から、前回の12限のスライドに関して質問を受けました。
「私は、文系の学生です。学部卒だと、確かに3年間しか勉強しないという超低学習歴人間になってしまいますが、どうしたらよいでしょうか?」
まずはじめに、日本の学部生であることに危機感を持っていただいたことに感謝します。
1.学生とは何か、2.世界の大学が学部生に期待するのは何か、3.日本の大学の学部生として何かすべきか、補論.超高学習歴人間(プロ)になるには 、という順番で解説していきます。
1.学生(Student)とは何か? 大学のUniversal化によって、日本人の高校卒業生の全員が(選ばなければ)どこかしらの大学に、入学出来るようになりました。
こうなると、確かに、大学の学生であることに何の特別感もなく、モラトリアム(猶予期間)として大学4年間が存在するので「学生とは何か?」を全く考えません 。
今風に言えば、大学で「ボーっと生きている」 わけです。
日本の法律では、大学などの高等教育を受けている人だけを専門的に「学生」 と呼ぶように定められているようです。幼稚園児は園児、小学生は児童、中学生や高校生は生徒と区別されています。
英語で言えば、”Student” です。さて、大学などの高等教育を受けている人と、高校生は何が違うのか?
”Student”の元にある"Study"=the activity of examining a subject in detail in order to discover new informationです。Studyとは研究で、Studentは研究者 です。まあ、最初から研究者にはなれないので、研究者の見習いみたいなものです!
”Student”の役割は、「論文」を読み、書くことに尽きます。学生は、図書館や目の前のPCで、先行論文や先行文献をひもとき、そうした先人たちの研究の積み重ねの上に、先人たちの知と格闘しながら、1本新たに論文を書き上げる。 それが「卒業論文」 です。
本来、大学教員の講義は、この研究のためのナビゲーション(道しるべ)で、手ほどきに過ぎない のです。"Student"は自分が所属する学部の先生から「こんな文献に当たるとよい、こんな本を読むとよい」という案内を受け、図書館に入り浸り本を読み、そして論文を書きます。
日本の大学は、あまりにも大衆化(レジャーランド化)し過ぎてしまったため、大学は、こういった、そもそもの大学生の在り方(Role model of university student)さえも、示しません。
その結果、学生は、何となく大学生活を過ごし、就職活動に直面して、卒業をしていきます。
桐島の少年時代(大学の学部生時代) 耳が痛くなる話ですが、そんな私も、"Student"になり切れない学生生活を送ってしまいました、、、( ;∀;) 大学の学部4年間の記録を引っ張り出してくると、こんな感じでした 汗
ほとんど、集中して学問をする時間がありませんでした。ゼミの論文も、全く思考せずに、既存の情報をパパっとまとめて終わらせてしまいました。
そんなわけで、私自身も学部生の時に、"Student"になれませんでした。 その後、社会人になってから、アメリカの大学院へ留学の機会を得て、2年間で論文を書き上げて、修士号を取得して、ようやく"Student"になれたと実感しました。
<大学生活 4 年間>1 回生:手を広げる 寮祭実行委員長(寮で連日どんちゃん騒ぎ)、大学新聞部、彩京前線、ボランティアガイド、一般教養ゼミ、国際シンポジウム 30th、運転免許合宿@佐世保2 回生:選択と集中目標は 3 点=TOEFL100 点で留学、体重 60 キロ、本 100 冊 祇園孝也バイト、ゲイバーバイト、朝ドリブル、積読、ゼミ2つ(国際経済、ロジカルシンキング)、ガイド、バック(イギリス・ノルウェー・フランス旅行 with father)、Discussionサークル創設、ボランティアガイドサークル部長(オーストラリア国立大学への留学断念)、卓球サークル3 回生:身近な人を支え、支えられる ボランティアガイド面接委員、国際関係論サークル、国際経済学ゼミ長、コンサル(Accenture)インターン、内定・ベンチャー(Glee)インターン、ゼミ論、就活4 回生:時間をフル活用公務員試験のお勉強(くだらないから時間を使わないよう心がける) 西安交通大学 2 週間交換留学、東南アジア青年の船 43 日間+研修+事後活動、ゼミ論完成、バックパッカー(タイ、カンボジア、ベトナム)、卒業旅行@台湾●重要な教訓 ・民間就職活動にはまりだす「ノルウェイの森」に大事なことを教わる ・死んでもいいけど生きるなら如何にして生きるか? ・自分の追求する価値観、人生で達成したいことを突き詰めて考える ・Professional 仕事の流儀やカンブリア宮殿に登場する人物を見まくる ・自分はどういう人間になりたいか? ・一番近いと思ったのが「竹岡広信」「荒瀬克己」「木村俊昭」 ・自分は将来教育、人材育成に関わりたいと改めて認識 ・自身の将来が既視化できるコースを歩むのは、人間の幅が広がらない ・学びの基本は、忍耐力ではないか?数学を途中挫折した人は、数学の楽しさが分からない。じっくりどっしり落ち着いて机に向き合うのが全ての基本●好きな分野(齧っただけ) ポストモダン→教育→社会→国際政治→ビジネス書→金融危機→マクロ・ミクロ経済●好きな人 内田樹、村上春樹、ウォーラーステイン、ジャックアタリ、池上彰、佐藤優
2.世界の大学が学部生に期待するのは何か 私の雑談を挟んでしまいましたが、それでは、世界の大学が学部生に期待するのは何か、どういう学生を育てないのか、に関してです。
「大学はもう死んでいる?」という刺激的タイトルの著書から引用します。
以下は、オックスフォード大学の苅谷剛彦教授の発言です。
苅谷 僕は、日本の日本語で呼ばれる「大学」とアメリカやイギリスの「ユニバーシティー」は、似てはいるが実は違うものだと思っています。要するに、ユニバーシティーで目指しているのは知識の伝達ではない 。知識の伝達も重要ですが、与えた知識を通してどれだけアーギュメントができる人間を育てるかということがゴール なのであって、だから科目も少なくていいということになります。 結局、僕たちは明示されたカリキュラムを教えるだけじゃなくて、読ませて書かせるトレーニングを通じて、アーギュメントができる能力を育てている んです。アメリカで教えていた時はまだ若かったから、実際にそこまで考えていたわけではありませんが、今オックスフォードで教えていて、改めてそう思います。 このアーギュメントという言葉は日本語では普通「議論」と訳しますが、ちょっと違うニュアンスになってしまうので、僕は英語でしか言えないんですね。「アーギュメント」には自己主張するという要素も含まれている けれども、ただ自分の意見を言うというのではなく、知識を分析的に自分で獲得した上で、「だから私はこう考える」と論じる ことができないといけません。アーギュメントというのは、基本的にはクリティカル・シンキング で、「クリティカル」 は「批判的」と訳されますが、「反省的」と言った方が近い かもしれない。読んだものをそのまま鵜呑みにしてしまったらアーギュメンはできませんから、当然分析的にも、クリティカルにも読むということになります。 アーギュメントするのは、知識という部品が提供されることが必要 です。けれども、それは講義を通じて伝達するのではなく、リーディング・アサインメント(事前の文献学習)によって学生たちに自分で獲得させる。 たとえば、僕がアメリカの大学院で教えていた時、日本の社会を対象に社会学を教えましたが、リーディング・アサインメントも毎回、けっこうな量を出して、日本の雇用や教育、階層の問題についての文献を学生たちに読んでもらいました。ある会では、鎌田慧(さとし)さんの『自動車絶望工場』の英訳を各自が読んできて、日本における工場労働や雇用の問題といったことをディスカッションしたんですが、その中で学生たちは、日本のことについての知識を得たという以上に、日本という比較の視点を持った時に自分たちのことをどう考えるかということを議論するということを学んだ わけです。(P66、67)
これを読んで、大学の授業の質的な違いが想像できましたか?
前提知識として、日本は、大学の半期(1学期分)で13科目も14科目も授業があり、授業を受講するだけでも忙し過ぎます。これが世界的な標準は、1学期に4、5科目になります。
ゼミに近いものを4、5個取るイメージですので、1科目あたりに割ける時間が多く、事前課題が多く、授業中は少人数で、議論が中心になります。
アーギュメント能力は、実際に大学教育で目に見えるぐらい、身に付くようです。引用します。
苅谷 日本と違うのは、オックスフォードでは「読ませて、書かせて、アーギュメントできる能力を育てる」 という教育がけっして理想主義からきているのではない、という点です。そういう教育を何百年とやってきて、実際に機能しているということが社会の側でも承認されているから、「やり方を変えろ」という圧力も生まれない。今までのやり方を踏襲していけば、当然、アーギュメントできる能力は育まれていく。そのことが、既に前提となっています。 実際、大学の教育によってどれだけアーギュメントの能力が獲得されたのかは、教員にも学生本人にもはっきり見える んです。学生が書いてくる最初のエッセーと最後のエッセーのアーギュメントの質は、全然違います。 僕はよくオックスフォードの学生に、「1年間で読んだ本を積み上げてごらん」 と言います。いろいろな科目を合わせたら、すごい高さになりますよ。 それから、「1年間で書いたエッセーを積み上げてごらん」 と言うと、これもけっこう積みあがりますから、「おお、こんなにやったか」というのが目に見えてわかります。 目に見えないところはもちろん大事ですが、目に見えるというのは自信につながる。(P70)
桐島が、これまで解説してきた速読術は、世界のリーディング(筆頭)大学のオックスフォード大学レベルでは、学部生の時から実践 していることが分かると思います。
そういう観点では、私の速読術講座は、受講生をオックスフォード大学生レベルに底上げするための講座 と言えます (笑)
3.日本の大学の学部生として何かすべきか? さて、何となく結論が見えてきましたね(*‘∀‘)
日本の大学では、基本的にアーギュメント人材になれません! 理由は、教育カリキュラムが、そのような人材を輩出することを目的にしていないためです。
しかし、オックスフォード大学に限らず、世界の標準レベルの大学でも、当然、アーギュメントできる人材を輩出することを目指しています。
そこで、上の図のように、日本の学生は、まず、私が「地方の大学生向けの講義」で解説しているような「本の読み方」や「日本の大学の特殊性」を意識 します。
意識するだけでも、世界標準レベルにだいぶ近づきます。
その後、やはり、日本の大学だけに籠っていると、世界のレベルを実感できないため、「トビタテ!留学JAPAN」のような信頼できるプログラムを使って、世界の相場観も掴んでくることが必要です。
このようにして、読書と海外で得た知見を融合させて、日本の大学内でも仲間と議論したり、ゼミ活動に積極的に参加することで、アーギュメント能力を高めてみてはいかがでしょうか? 以上が、冒頭の質問に対する、私なりの回答になります。
「私は、文系の学生です。学部卒だと、確かに3年間しか勉強しないという超低学習歴人間になってしまいますが、どうしたらよいでしょうか?」
補論.超高学習歴人間(プロ)になるには以下は、補足になります。これは、真の"Student"になるため、超高学習歴人間になるための内容なので、見ていただく必要はありません (笑)
大学生は、是非とも手に取るべきと思う、以下の「知の技法」入門 から引用します。
(どのぐらい本を読みますか?という質問に対して) 小林 まず数ということについてですが、どんなことでもある程度習熟し、ある程度のレベルに達するには、どうしても「桁」をこなさなくてはならない というのが僕の考えです。つまり(時間を含んだ)世界は指数関数的にできているということです。純粋に空間的な発想は「距離」ですよね。だから、1、2、3、・・・13、14、・・・153、154、・・・というように、一律で数が増える。ところが、実践的な時間を組み込んだ世界というのは、細胞が増殖するような場面を考えてくれればいいんですが、世界は指数関数的に出現する。つまり、世界は爆発的なんです。10の0乗、1乗、2乗、3乗・・・、と。難しい言い方をすれば、だからこそ、eという自然対数の底ーネイピア数ですがーが時間を含んだ世界の根底にあるんだ、と僕は勝手に理解している。 僕は大学ではフランス語の初級を教えてもいるんですが、学生たちにいつも言うのは、外国語をまあ、ある程度ものにするためには、たとえば1年間に、10の3乗つまり、1,000時間くらいを投入 しないことには話にならないということ。数十時間の単位でしか勉強しなければ、なにもやらないことと同じ。 千というオーダーにのってはじめてフランス語が少し自分の身体のなかに、あるいは脳細胞のなかに入りこむ。集中的に指数3を目指せ 、というわけですね。これは、本を読むことに関しても同じ じゃないかな。自分の中に確実になにか手応えのある核ができるためには、やっぱり少なくとも100のオーダーには達する必要がある。 1年でか、1か月か、それはわからないけど、ある集中の時間があって、そこで細胞が充分に分裂増殖してなにか新しい核を生むための「量」 ということですが。ともかく、1年で10冊、20冊というレベルでは話にならない。そんなの経験にならない ね。一生に一度でいいから、しかも絶対に若い時、25歳くらいまでの間に、自分の関心や興味のある領域で徹底的に時間を投入する。100なら100という数を読んでみるということが非常に重要 だと思うんですよね。それがあってはじめて、経験が存在のなかで拠点となる。 10の2乗、つまり100ぐらいから、1つの世界が感じられる じゃないですか。自分にとってその世界の何かが見えてくる。10の3乗、つまり1,000のレベルに達するとその世界は確固たるものに なる。そこから先の道はまた遠いですが、プロというのは、どんな世界でも、10の4乗のレベルまでは行きます よね。そうでないとプロにはなれない。どんな研究者、学者、作家だって、その書斎は1万冊以上の本が詰まっている でしょう。でも、その先はなかなか行けませんね、10の5乗、つまり十万の単位ですけど、人間の一生は、2,3百日のオーダーだもんね。僕、たしか生まれてから今、2万3千4百日くらいですよ。そう考えたら、1日1冊として100日100冊って、人生においてそれなりに、意味のある単位だということがわかるでしょう?だから、まずはこの指数に挑戦して欲しい ですね。小説だって同じ。まとめて100冊くらい読まなければ、小説が何かなんてわからないと思いますね。1,000冊になったら、ようやくドストエフスキーから村上春樹まで、こういうふうに小説世界が広がっているんだというのが見えてくる。昔、河出書房から出ていたグリーン版の世界文学全集、確か100巻だったと思うけど、その100という数字には意味がありますよね。そうそう、蓮實重彦さんが昔よく学生に「1年間に映画を200本以上観ることが、授業に出る条件です」と言っていましたけど、あれもやっぱり100のオーダーに時間とエネルギーを投入できてはじめて、その人にとっての映画の世界が現れるということだったんじゃないかな。 大澤 100冊とか1,000冊と言われると、それは大変 なことだと思うでしょうね。だけども、自分に向いているものだとさほど苦痛ではない んですよ。映画を1年間に100とか200観るとなったら、昔はDVDもなかったわけですからなかなか大変なことだよね。(P58~60)
プロになるための、打ち込み数の目安について記載があります。
「え、噓でしょ、そんな時間かけるの?」と驚くかもしれませんが、ちょうど、大学院の修士課程が、プロのなるための一里塚なわけですが、標準設定期間は、2年間で365日×2=730日ですので、何かしらを1,000のオーダーに持って行くための修行期間ということです。
集中力×時間のどちらも、高めていかないとプロになれないことが分かりますね。プロを目指す方は、是非とも参考にして下さい。 あ、私も、頑張ってプロになりたいと思います 汗
See you soon. 次回は14限目です。