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【ネタバレあり】『わたしが・棄てた・女』に見る、令和でも絶滅しない「クソ男」たち


画像:ブクログより


「20代に読みたい名作」(林真理子)として紹介された遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』。この作品は、1963年に発表されながらも、いまだに読者の心を揺さぶり続けています。一見すれば、単なる「クソ男」の物語。しかし、その底に流れる普遍的なテーマと深い人間描写には、読む人を惹きつける力があります。


1.あらすじ

※このコラムには、物語の結末に関するネタバレが含まれています。まだお読みでない方や内容を知りたくない方はご注意ください。※

やりたい盛りの吉岡努という大学生が、そこらへんで拾った芸能雑誌の文通欄に名前のあった森田ミツと知り合い、2度目のデートの際、安ホテルに連れ込み強引に体を奪います。やるだけやっといて、ことがすむと「え、この女、足太っ、ダサっ」、と賢者モードを発動し、ヤリ捨てしてしまいます。

吉岡が大学を卒業し就職すると、就職先の社長の姪である三浦マリ子と親しくなり、婚約することになります。マリ子とは体の関係は持たず、その分の性欲をトルコ風呂(風俗)で発散します。トルコ風呂で出会ったトルコ嬢がミツの知り合いであることがわかり、ミツと再会します。吉岡がまた気のあるそぶりをミツに見せると、ミツはハンセン病の疑いから御殿場の療養所にいくつもりであることを涙ながらに語ります。それを聞いた吉岡は、「ハンセン病とかやばっ」、と逃げてしまいます。

絶望の中、御殿場の療養所に入所したミツでしたが、少しずつ現実を受け止めるようになります。しかし、ある日ハンセン病は誤診であることが判明します。療養所から退所する途中、やはり気が変わり、療養所でハンセン病患者の力になることを決めます。

時が経ち、吉岡はマリ子と結婚します。しかし、未練たらしくもハンセン病のミツのことが気になり療養所宛に年賀状を送ります。しばらく経った頃に一人の修道女から長い文面の返事が届き、吉岡は年末にミツが交通事故で死んだことを知ります。「さいなら、吉岡さん。」という言葉を残してミツが死んだことを知り、吉岡はやりきれない思いに身をやられるのでした。

2. 令和の時代にも通じる「クソ男」のリアル

画像:ChatGPTより

この作品を読んでまず驚くのは、60年以上前の話にもかかわらず、令和の現代にも通じる男女関係の生々しさです。吉岡のような「クソ男」は、今この瞬間ものんきにコンビニのサラダチキンでも食ってるのではないかと怒りでわなわなと手が震えてくるほどリアルです。

吉岡の行動は、単なる若気の至りという言葉で片づけられないほど無責任で、欲望に忠実すぎます。それでいて、自分の行動が他人に与える影響や責任には無頓着です。このようなタイプの男性は、時代を問わず存在し続ける普遍的なものだと感じました。そして、そのような男に振り回されるミツのような女性もまた、現代においてもよく見られる姿です。

こうした男女の関係性は、トリキで友人同士が語る恋バナとしても違和感なく成立するくらいに、普遍的でありふれたものです。この点で、遠藤周作の筆致は、驚くほど現実的で鋭いと言えます。


3. 愚かな人間の物語を超えて

遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』は、しばしば「キリスト教文学」として論じられますが、私にとって特に印象的だったのは、現代にも通じる男女関係の生々しさです。作中の吉岡とミツのやりとりは、60年以上前に描かれたにもかかわらず、今でもよくある男女の関係そのものです。吉岡のようなズルい男と、彼に絆されるミツのような女の話は、いつの時代も消えることがありません。

こうした人間関係の普遍性は、「自分だけが特別に苦しいわけではない」という気づきを与えてくれる点で、多くの読者にとって救いになるかもしれません。恋愛において辛い経験をした人が、この物語を読むことで、自分の体験がよくある現象の一つにすぎないと気づき、少し心が軽くなる。そんな作品の力を感じました。

また、このような遠藤周作大先生の名作に「クソ男」という下世話なテーマで熱く語ってしまいましたが、すこしインテリチックな観点から考察すると、遠藤周作が吉岡の“クソさ”を徹底的に描き切ることで、人間の愚かさそのものを浮き彫りにし、キリスト教的な救済に触れているのではないかとも思います。高尚なテーマに思いを馳せながらも、根底には「どの時代にも変わらない人間模様」というリアルさがある。だからこそ、この作品は時代を超えて愛されるのではないでしょうか。

4.まとめ


『わたしが・棄てた・女』は、60年以上前の作品でありながら、令和の時代にも通じる「クソ男」のリアルを鮮烈に描いています。作中の吉岡努の振る舞いは、現代のどこかにもいそうな姿です。遠藤周作の筆致は、こうした愚かでずるい人間の本質を見事にえぐり出しています。この普遍的なテーマは、どの時代に読んでも共感を呼び起こすものです。

この物語は、「自分だけが特別に苦しいわけではない」という気づきを与えてくれます。恋愛や人間関係における痛みや失敗を個人的な悲劇だと思い込んでしまいがちな時、この本は「同じような経験はどの時代にもある」という事実を教えてくれます。これが、多くの読者にとって一種の救いとなるのではないでしょうか。

この作品は、遠藤周作という名作家に興味がある人にはもちろんですが、個人的には、「クソ男」(もちろん「クソ女」の場合もあります)に失恋し、苦しんでいる女性(もちろん男性の場合もあります)に読んでほしい作品です。60年以上前から「クソ男」は生息していたのだという発見が、少しはあなたの傷ついた心を軽くしてくれるかもしれません。過去の愚かさを冷静に振り返りつつ、未来へのヒントを得る――そんなきっかけを与えてくれる小説です。



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