本を携えてなるべく遠くへ
深夜ラジオ「オードリーのオールナイトニッポン」では年始、若林さんが春日さんに「新年の抱負は?」と尋ねて「ねえよそんなもん!めんどくせえなあ」と返す恒例のやり取りがある(正確には近年は聴けてないので、少なくともかつてはあった)。抱負表明合戦になりがちな年の初め、春日さんの「抱負はない」は痛快で、いつも声を出して笑った。
子ども、家族の障害や病が分かってから迎える新年は、まさに抱負は特にない状態になっている。なぜなら次の年末や、何ヶ月か先の未来さえもはっきりとは見えないから。障害は消失するものではないけれど、困り事が緩和するだろうか。病の治療はどのように進むだろうか。さらにトラブルが加わることもあるかもしれない、なんてことも考える。
SNSで「この文庫を読破する」や「この海外小説を読み切る」という投稿を見かけた。素晴らしいと思う。自分はそういった目標は描けない。けれど、本は読んでいきたいと思う。
1日1日を、生きる。確かに生きていく。日々を重ねていく。その傍らに本があれば嬉しい。本を携えて歩いて、歩き続けて、なるべく遠くへ。2025年の初めの意気込みは、そんな感じかなあと思います。
なんだか辛気くさい気もするけれど、この年の展望を描けないという人はきっと私だけではないのではないかと思う。1人ではありませんよと伝えたい。
最近読んだ荒川洋治さん『文庫の読書』(中公文庫)が胸に残った。決して脚光は浴びないけれど、確かな名作の愛を丁寧に綴っている。その中でチェーホフの短編に関心を持った。読むとは約束できないけれど、読んでみたい。荒川さんが解説を書いた阿部昭さん『散文の基本』(中公文庫)でも、チェーホフが愛されていた。以下、荒川さんのチェーホフ評。
1日1日、確かに。そんな歩み方もいいだろうと思えたのは、柴崎友香さんの『続きと始まり』(集英社)に感化された面もある。始まりは、何かの続きである。
口ごもりながら、自分でもよく分からなくなりながら、紡ぐ言葉の中に、「障害と共にどう生きるか」「病とどう折り合い歩むか」の思想が、培われることを願っていきます。