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暮らしにある哲学の扉ーミニ読書感想『水中の哲学者たち』(永井玲衣さん)

永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』(晶文社、2021年9月30日初版発行)が面白かったです。本書に登場する言葉を借りれば、まさに「手のひらサイズの哲学」。暮らしの中にある、小さな哲学の扉を開いてくれる。ささいな一言が思索の海に誘う。

著者は学校やイベントで哲学的テーマを語り合う「哲学対話」を主催している。「神」に関する哲学対話で、子どもが「神様って見えないじゃないですか。酸素も見えない。てことは、神は酸素なんじゃないかって」(p49)と発言した。神=酸素説。これだけでも面白いけれど、著者はこの一言を、街で耳にした不思議な言葉とつなげる。

彼女の言葉は、理由を背負っている。とんでもなくて、めちゃくちゃで、ゆるゆるの論理で、ちょっと笑えて、そしてとても伝わる。彼女の頭で煮込まれた、彼女だけの言葉だ。汗を光らせたサラリーマンが叫んだ「仰ってらっしゃるのを聞かせていただきました」も、わたしのバッグを受け取ったレジの女性の「おクーポン」もそうだ。どこかで「間違い」や「失敗」を予感しながらも、自分に正直に、世界に切実に立ち向かって投げる決死の言葉。

『水中の哲学者たち』p49-50

相手を敬おうと必死にあるあまり出た、サラリーマンの敬語。丁寧に言おうとする意思があふれる、店員さんの「おクーポン」。正しいか、正しくないか、精緻かゆるゆるかで言えば、もう語るまでもないけれど、それは紛れもなく、彼・彼女だけの言葉である。世界に立ち向かう言葉。

言葉はこんな風に、生々しく、たどたどしく、でもパワフルになれる。

著者自身の言葉の柔らかさとしなやかさと、そして語句の選び方やリズムもまた、言葉の可能性をひらく。それは、至高の可能性をひらくことでもある。

「なんで」と問うことは、その問題から、わたしを引き剥がす試みだ。ひとは苦しんでいるとき、何に悩んでいるのかわかっていないことが多い。漠然とした、説明できないもやもやに、身体はむしばまれていく。苦しみはぴったりとあなたに寄り添っているから、その姿を見ることはできない。だが、「なんで」と問うことによって、苦しみを、とりあえず目の前に座らせることができる。そうすれば、苦しみがどんな顔かたちしているのかがわかる。確認できる。まじまじと観察して、お茶でも出してあげよう。早く帰ってと説得してもいいし、そのまま一緒に暮らしてみても案外面白いかもしれない。少なくとも、得体の知れない不安感は、少し消えるはずだ。

『水中の哲学者たち』p131

言葉を紡ぐ。問いを自らと分離する。すると顔が浮かび上がる。私たちはその顔と語り合える。

本書は、以前に読んだ小津夜景さん『いつかたこぶねになる日』(新潮文庫)に似ている。言葉を目で追っているといつのまにか、どこかに連れ出される。誘われる体験。それが哲学なのかもしれない。誘われた先の海ではなくて、海へ向かう時間、泳ぐ時間。気だるく帰る時間。


言葉の海をたゆたい時。何かを得るよりも、何かを感じている時間を欲する時、本書はとてもありがたい一冊になります。

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