知らないことばかりだーミニ読書感想『安楽死が合法の国で起こっていること』(児玉真美さん)
著述家児玉真美さんの『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書、2023年11月10日初版発行)は、発達障害の子を持つ親として読めて良かったです。安楽死、医師自殺ほう助、「無益な治療」論…。知らないことがたくさん書いてある。知らないことばかりなのに、安楽死の是非論を語ってはいないか?と立ち止まれたことが、本書の最大の学びでした。
まだ幼い子に発達障害がある可能性があると知ってから、安楽死の議論に関心を持ち始めました。なぜなら、障害があると言うことは日本社会において「安楽死をすすめられる側」になる恐れがあるから。障害がある人の生を軽んじるまなざしは、相模原の殺傷事件だけが極端な例ではなくて、この社会に不穏にうごめいているように感じます。
本書で最大の驚きだったのは、「無益な治療」論。これは、安楽死とは異なるし、安楽死よりももっと過酷です。米国では、重度障害の在る方などに対し、これ以上の回復・改善が望めない状況では、病院側の判断で治療を取りやめる動きがあるそうです。その一つ「ゴンザレス事件」では、生まれつきの神経代謝障害で重篤な状態となった1歳の子の母親に対し、病院が「治療を中止する。10日以内に転院先を探して」と通告したそうです。その時の母親の反論が、胸に刺さりました。
障害のある子の親として、深く納得する。病院が「無益な治療」という時、目の前にある患者もまた「無益」だと断罪されている。でも、たとえわずかでも、たとえ回復が望めないとしても、その子と、その人と過ごす一瞬はかけがえがない。「それは親のエゴでしょ」という批判は甘んじて受け入れるけれど、その子もまた、母との時間を尊んでいないと、誰が断定できるのでしょうか?
13/18トリソミーの子を持つ親への調査では、その多くが「その子がいたのでは生活できない」「その子はずっと苦しむ」という言葉を病院側から投げかけられたそう。しかし、多くの親は、子と過ごす時間に豊かさを感じていた。ここにも、立場の違いによる「幸福度」の違いがある。
安楽死の「どうせ、もうできることは何もない」と、家族が感じる「せめて、なにがしかできることを」。この間で気持ちが揺れることがある。それはきっと、障害の当事者もそうではないのかと思う。
これも、私が、私たちが「知らないこと」です。コミュニケーションが難しい重度の障害者がいたとして、その人が感じる幸福を、不幸を、私たちは知らない、知り得ない。自己決定に基づく安楽死も、医療側の判断による無益な治療論も、この「知らない」が前提でなければならない。本当は。
本書の半分ほどを過ぎた段階で、実は著者も、重い障害のあるお子さんを持つケアラーであることが語られます(ああ、だからまなざしが私たち家族に寄り添ったものなのか、と納得しました)。出産直後、人工呼吸器が外れたことを喜んだ医師が、さらなる回復を祈ってミッキーマウスの人形をお守り代わりに置いたエピソードが綴られる。
医療者が、これ以上何もできないときに示した、小さな祈り。
相手に尊厳を贈ること。そして尊厳が照射され、贈り返されてくること。本当は、こうした営みが行われる社会の中でしか、安楽死を議論してはならないのでしょう。
もちろんこの社会はそんなに美しくはないけれど、だけども、「尊厳を贈る人間」でいようとは、固く誓いたいと思います。