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テキストの川から小石を拾うーミニ読書感想『長い読書』(島田潤一郎さん)

出版社を営む島田潤一郎さんのエッセイ『長い読書』(みすず書房、2024年4月16日初版発行)が胸に残りました。読んでいて何かを学ぶとか、結末のどんでん返しを楽しむとか、そういう明確な目的を伴わない読書というものがある。ただ読んでいるその時間が心地いいけれど、読んだ後はその良さをうまく言葉にできない、そんな本。本書はまさに、そういう本でした。だから紹介したい。

たとえば胸に残った箇所というのは、こんなところ。

 ぼくはこの数年、Cさんに、「ぼくもこの一年間、毎日長いものを読んでいたんです」といいたいがためだけに、毎年長い小説に取り組んでいるように思う。
 「『特性のない男』、ぼくもいま読んでいます」
 今年もお会いするなり、そういうと、Cさんは、
 「難しいですよね」と微笑み、
 「でも、残るんですよね」といった。

『長い読書』p133

読了から少し時間が経ってこの引用部分を読み返す時、自分でも、説明が難しいよなと思う。茎を切り取った野花がしおれてしまうように。

このCさんというのは、出版社を営む著者が取引する書店の方で、誠実な読書家である。そんな人と心を通わせるたいと、著者はその人が愛読するような長い本(ページ数の厚い本)に挑み、その感想を伝える。

その時、相手から帰ってきた言葉は「難しいですよね、でも、残るんですよね」というもの。「でも、残る」。そのことを、嬉しそうに語るこの人は、間違いなく本が好きなんだな、と思う。

先日読んだ、管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』を思い出す。

管さんは、テキストという川に浮かぶ小舟というメタファーで本という存在を説明していた。本書『長い読書』を読んでもまた、川の存在が心に浮かぶ。

本書の場合、川の一部が、支流といっていいのか、ほんとうにごく細い川が本書を流れているような、そんな感覚になる。読者自身が舟、あるいは水着姿で、その小さな川にたゆたうような。

そして、川から上がる時に残るのは小石。それ自体、なんというものでもない。けど確かに小石はそこにあって、川に磨かれた光沢を放つ。

いまも小石を見つめていて、だからこんな文章を書き残しました。

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