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直木賞はなぜ作家を狂わせるかーミニ読書感想『PRIZE』(村山由佳さん)

◎村山由佳さん『PRIZE』(文藝春秋、2025年1月10日初版発行)

出す本出す本がベストセラーになり、本屋大賞も射止めた超人気作家が主人公。しかし、日本最大の文学賞とも言える芥川賞と直木賞は得られていない。特に、作家歴に限らず対象となる直木賞。なぜ、自分は直木賞を得られないのか?絶対に絶対に欲しい。身を焦がす物語。

作中、出版社の編集者が「どうしてそこまで直木賞が欲しいのか分からない」という趣旨の発言をします。編集者にとっては日々の給与が対価。担当作家の作品が出来上がる瞬間に満足感を得られる。それでいいと。正直、会社員としては編集者の方に共感を寄せる気持ちが強い。

周囲を見渡してみても、主人公にとっての直木賞のような存在はどうしても思いつかない。それが得られなければ絶対満足できない何か。私にとっての直木賞とは、何だろう?だからこそ、直木賞がなぜ作家をここまで狂わせるのか、問いが頭の中をぐるぐると回る。

直木賞は何が特別なのだろう。作中、選考委員を務める大御所作家の言葉が胸に残りました。ネタバレには当たらない箇所なので引用します。

自分はどうしてもこれを書くんだ、という志。それさえこちらにビンビン伝わってくるなら、たとえ少々の欠点があったって思いきり推したくなっちゃうね。志こそは、小説の持つ最大のパンチ力だと思う。そういうパンチを浴びるから、候補作を読むとぐったり疲れる。でも、本気でパンチを打ってくる相手には手加減しません。俺も本気で打ち合う。それが礼儀です。正直、殴り合ってる時に、これが売れるか売れないかなんて考えたことないんだ。だから時には兵頭さんたちの仕事を邪魔してしまうかもしれない。それは申し訳ないと思うよ。ただ、俺たちも書店員の皆さんと同じで、小説が好きだから、好きで好きでたまらないから選考をやってこられた。おっしゃるように本が売れることももちろん大事。その一方で、実作者が志を感じてその健闘を称えるような、あるいはバトンを託すような文学賞も、俺はあっていいと思ってる。

『PRIZE』p342-343

これを書きたいという志。選考委員たちも作家であり、だからこそこの志に呼応し、殴り合う。たしかにこれは、文学賞にしかないのではないか。

仕事には常に数字がつきまとう。それは文学においてもきっとそう。売り上げを気にしない書店員はいないだろうし、編集者もいない。でも作家と選考委員だけは、売れるか売れないかに関係なく、志をぶつけ合う。たぶんその火花に惹かれて、読者は受賞者を読みたくなる。直木賞を特別なものにする。

しかし、改めて残酷だなと思う。裏返すと、直木賞を「受賞しなかった作品」は、ある意味で「志が足りなかった」ともみなされてしまうから。実際、主人公はそのことに苦しむ。候補にはなっても受賞作にはなれないこと。読了後ページをさかのぼるとこんな述懐が目に止まる。

だからこそ、どんなに過酷でも最後には何かのかたちで報われる物語を書き続けてきたのだ。その祈るような想いが、どうして、〈作者の都合で書いている〉だの〈人間が書けていない〉だのと揶揄されなければならないのか。これまで目にした選考委員の評を思い出すと、またしても腹が煮えてくる。

『PRIZE』p73

物語に救われてきた主人公は、だからこそ自分の物語にも救いを織り込む。これが主人公の志なわけです。しかし、そうした願いが選考委員には「人間が書けていない」と指摘される。ご都合主義であると。

志の重みを説く直木賞選考委員も、主人公の切なる志を汲み取らない。この断絶は深い。

どちらの立場に足を置くかで意見は変わるでしょう。選考委員からしたら、主人公の「救い」は伝わらないんだと言いたいのかもしれない。でも私は、主人公の側に立ちたい。ありがとう。人間が書けてないとか浅いとか貶められてもなお、救いを用意してくれてありがとう、と。

直木賞に代わる栄誉はない。読者の賞賛は直木賞と同等にはなり得ない。それでも、私たちは作家の志を真剣に受け止めることはできる。選考委員が切り捨てる切なる思いを、きちんとキャッチすることはきっとできる。そんなことを思いました。

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