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テキストの川へーミニ読書感想『本は読めないものだから心配するな』(管啓次郎さん)

本が好きな人なら、これほど惹かれるタイトルもない。管啓次郎さん『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫、2021年9月10日初版発行)がとても、胸に残りました。

変わった本です。エッセイ集というか散文集というか。本書に出てくるスケッチという言葉も相応しいかもしれない。さまざまな媒体に著者が発表した文章が、章もなにもなく、ひとつなぎに並べられている。それは川を連想させる。

著者の読書論も、川が一つのメタファーになっている。本を「冊」で考えない、と。本とは、広大なテクストの一部でしかないのだ、と。

本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝わ落ち葉や草の岸辺だ。

『本は読めないものだから心配するな』p14

著者が本は読めなくてもいいし、忘れてもいいというのは、「テクストに触れる」という営みは本を読むことに限らないからです。本はテクストと私たちが交差するその瞬間とも言える。あるいは、小舟に喩えてみてもいいかもしれない。本という船に乗り、テクストの川を行く時、感じられる水のきらめきや風の涼しさが、読書である。

本を読んで、頭が沸騰して、散歩に出る時。日々があまりに忙しくて、「本が読めないなあ」と思う時。そんな時も、ある種、読んでいる。本を通じて触れたテクストが、私たちの心の中にある時、私たちは異なった形で読んでいる。

本書は、積読も肯定しています。

それでも本を買うことは、たとえばタンポポの綿毛を吹いて風に飛ばすことにも似ている。この行為には陽光があり、遠い青空や地平線がある。心を外に連れ出してくれる動きがある。それはこの場所この現在を、別の可能性へと強引にむすびむけてくれる。本とは一種のタイムマシンにして空飛ぶ絨毯でもある。

『本は読めないものだから心配するな』164-165

川の向こうには多くの場合、海がある。海を目指す意志を川と言ってもいいのかもしれない。本を読もうとすることは、心をここではないどこかへ、遠いどこかへ運んで行くという、決意宣言でもある。

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