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キャリアと憂鬱

今日のテーマはキャリアデザイン。
人材業界に10年いて、様々な悩みを抱えた人の相談を受けている。
同時に一人の人間として、今後のキャリアについて漠然とした不安を抱えている。私もだが、自分のキャリア(未来)に不安のない人は恐らくいないのではないか。自分のキャリア論の現在地を書き記しておきたい。


今までのキャリア論

就活系のメディアで、何度か私のキャリア論を記事にして頂いたことがある。まずはそのインタビューを読み返して、これまでに考えてきたキャリア論を整理したい。

1.私のキャリア

自分は大学時代、オシャレをすることがとにかく好きでそこに自分のかなりのリソースを割いていた。経済的にはもちろんのこと、映画や雑誌を通して研究したり、お店を回って店員さんから色々教えてもらったり、歴史を学んだり・・・。当然のように、就職活動でも真っ先に思いついたのは「大好きな洋服を仕事にしたい」ということ。

実際に就職活動では、繊維系の商社しか受けなかった。
学生時代に販売のアルバイトは経験していたので、社会人になったらオシャレな服を日本中にもっと広めるぞ!何なら自分のブランドを作りたいと本気で考えていた。

実際に就職すると、自分の考えと現実との間に大きなギャップを感じた。
それは「売れる服」と「カッコいい服」は違うということ。
当時の自分は「カッコよければ」売れると思っていたが、全然違った。お客様からオーダーが入る服は、ロゴが刺繡されただけのポロシャツや安っぽいTシャツばかりだった。自分のプライドとの葛藤が始まる。朝から晩まで働いて作る服がこれでいいのかと。当時の自分はそれが許せず、結果的に1年弱で退職するに至った。

その後に入社したのは、人材系の会社。営業職。
別にやりたいことではなかった。ただ結果を出さないと後がないという危機感だけで、1位を取ることを目標に取り組んだ。
結果的にその会社で3年連続一位を取ったことで自信が付き、気が付けばもう10年も人材業界で仕事をしていることになる。

2.私のキャリア論

世間にはこういう類のメッセージが溢れている。


この本は読んでいないので批評するつもりは一切ないが、やりたいことがないとダメみたいな風潮に個人的に違和感を感じていた。

「やりたいこと」は必ずしも必要ではないと思う。
特に新卒の時のやりたいことは、自分の好き嫌いや経験してきた世界だけから来ていることが多いため、「やってみたら全然違うじゃん!」に陥りやすいと感じている。その上で私の考えていたキャリア論の要旨は下記の3点に要約できる。

  1. 「やりたいこと」はなくてもいい

  2. Willドリブンより、Canを身につけた方がいい

  3. 継続すると、視座が変わるタイミングが必ずくる。そこでWillに挑め

これが正しいと思い、こういう学生が増えたらいいなと思い起業した。
しかし、私の力結果世の中は1mmも変えられなかった。
ただ、変えようとする中で見えてきたことがある。
ここからはアップデートした新しいキャリア論をまとめていきたい。

シン・キャリア論

1.間違っていた前提

キャリアをデザインする時に私たちは逆算思考を使う。
仕事観や人生観を確固たるものとして設定し、一定の自己を規定する。
そこに「やりたいこと」や「人生の目的」を掲げ、キャリア講師は「人生全体のプランを立てよ」と言う。

この流れで決定的に間違っている箇所がある。
「自己は一定である」ということだ。

未来永劫、自分の価値観は変わらないことを前提にして物事を考える風潮がキャリア論の世界には蔓延しているように感じる。そこには何かのきっかけで道を外れることは想定されていない。
自分の人生を自分で設計する時、「将来こうなりたい」と思い描いた自分は「今ここ」の自分である。つまり「今ここ」の自分が想定しうる範囲内でししか将来を描くことができないという観点で、未来の自分=今ここの自分が成立してしまう。ここにそもそもの落とし穴がある。

2.人材業界の罪

先ほど見たように、巷に溢れているキャリアのキャッチコピーは「やりたいことを仕事にする」「自分に合った仕事がある」などである。これは、自分にピッタリのキャリアという道が誰しもに用意されており、それを見つけることで人は理想のキャリアを歩むことができることを暗示している。

その結果、「やりたいことが見つからない」「自分に合った仕事が分からない」という悩みを求職者は抱くようになり、鬱状態になる。そこに救世主のように現れるのがキャリアアドバイザーと呼ばれる人たち。第三者のアドバイスは、就職活動という森に迷い込んだ求職者の足元を照らす存在となる。

キャリアアドバイザーは自分の都合の良いレールをあの手この手を使って求職者に示す。求職者側も、生活するために永遠に森の中を彷徨うわけにはいかない。妥協点を見つけ、森から脱出していく。

3.「キャリア」=轍

「キャリア」という言葉を聞いて、どんなイメージを持つだろうか?

キャリアという言葉の語源を調べていくと、ラテン語のcarrariaにたどり着きます。これは、荷馬車や四輪の荷車の通り道、轍(わだち)を意味し、それが次第に転じて、人のたどる行路やその足跡・経路・遍歴を意味するようになったと言われています。つまり、キャリアという言葉は、人の経歴や生涯をも含む意味を持っているのです。

日本キャリア開発協会HPより引用(https://www.j-cda.jp/your-own-career/about-career.php)

「キャリア」という言葉は、過去の自分の足跡を表す言葉である。
にもかかわらず、現実には未来を指す言葉としても使わる場面をよく見かける。「キャリア」が未来を指すとき、「私自身」は過去・現在・未来において不変であるものが前提になっている点に大きな問題がある。

4.生きていくためのスパイス

これまでの流れを整理してみよう。
世の中には「やりたいこと」は一人ひとりの中に必ず存在するものであるという暗黙知が存在する。それを見つけるために、自己分析、自分探しの旅、自己啓発本やセミナー、キャリアアドバイザーなど様々なメディアが存在する。
しかし、前提から大きな間違いを犯している。それは、過去・現在・未来において自己は一定であるということだ。「今ここ」の自分と明日の自分は全く同じと言えるのだろうか?今やりたいことが1年後も必ずやりたいことであるとは限らない。

哲学者の宇野常寛さんはこう言っている。

人間は恒常性を求めて生きているので、基本的には現状を維持しようとする、言い換えれば、「いまの暮らし」にさまざまな行為を最適化しようとする生き物だと思います。人間が根底から変わるのは、そんな暮らしを最適化するための試みが失敗したときだと思うんです。

たとえば、起床後の頭をスッキリさせようと濃いコーヒーを飲んでみたら、身体に合わずに目が冴え過ぎてしまうかもしれない。けれど、こうした「事故」が人を変えるのではないかと。人間は「変わろう」と思って変わるものではない。むしろ「変わらないための試み」が失敗したときに、一番変化が起こる。だから、僕は暮らしを最適化するための行為を肯定したい。

https://digthetea.com/2023/09/generation_of_phone/より引用

「変わらないための試み」の失敗例として映画『PARFECT DAYS』で役所広司さん演じる平山の姿が重なる。

平山は毎朝神社の境内を掃除するほうきの音で目覚める。
決まったルーティンをこなし、毎日同じ生活を送っている。
新しいものを求めないのは、自分の心が健やかでいられる方法を知っているからで、多くの物は必要ないのだ。平山にとって、それは人間関係にも言える。ある日、妹の娘のニコが現れると、平山の日常に少しずつ変化が起きる。これ以上書くとネタバレになるので、やめておこう。

私たち人類は恒常性を持つことで生存してきた種である。故に無意識のうちに現状維持バイアスがかかった状態で行動している。醬油味の自分をある日突然豚骨味に変えるのは勇気がいる。醬油味の毎日は確かに不味くはないし、毎日でも食べられるかもしれない。でもある日、自分の前に胡椒があってそれを使ってみたいという気持ちが浮かんでくる。この気持ちに蓋をしないで、胡椒を入れてみる。そうすると、「これもアリじゃないか」というフィードバックを得ることができる。いわゆる「味変」である。


自分の人生というスープの味自体を変えるのには勇気がいるし、できないことだって多い。であれば、自分の人生にスパイスを入れながら「味変」を楽しむ方がいいのではないのだろうか?

ただ人生のスパイスは、いつも自分のそばに置いてあるわけではない。
ある日突然現れるものである。自分というスープを味変していく。一度に沢山入れるのはリスクがある。レンゲで少しすくって、親指と人差し指でつまんで少し入れてみる。その味を楽しむ。
そんな姿勢で人生を楽しむことができたら、どれだけ豊かであろうか。

まとめ

やばい。全くまとまらない。取り留めがなくなってしまった。
自分自身もキャリアについて現在漠然と悩んでいる。
「消化しきれないもの」「難しさ」「モヤモヤ」と向き合っていく。

長文読んでいただき有難うございます。
また来週に書きます。