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「生きる気力」を削ぐ言葉が溢れた社会で
時代は言葉をないがしろにしているーあなたは言葉を信じていますか
なんでだろう。
この詩の一節が、もう何年も私の胸に刺さっている。
あなたは言葉を信じていますか
私は言葉を信じているのだろうか。
未だに答えが見つからない強烈な問いだ。
「生きる」ということを楽にも楽しくもさせてくれないような言葉が増えて、言葉の役割や存在感が変わってしまったように思うのだ。
ある人の「生きる気力」を削ぐ言葉が飛び交う社会は、誰にとっても「生きようとする意欲」が湧かない社会になる。
ぼくは、そんな社会を次の世代には引き継ぎたくない。
本書は一貫して言葉について思考する。
著者は言う、言葉が壊されつつあると。
そして本書ではせめて言葉が壊されることを悔しがりたい、と。
確かにツイッターをひらけば驚くほど「生きる」意欲を削ぐような言葉に出会う。
最近だと、私は親ガチャと言う言葉がほんとうに嫌いだ。
ゆるく、柔く、「生きようとする意欲」がバカにされるような言葉がコンスタントに生み出されている気がする。
そしてそんな言葉の裏には、著者曰く“マッチョな自己責任論者”がいると言う。
マッチョな自己責任論者は、言うなれば誰かが理不尽な目に遭った時、それを“その人が蒔いた種”だと解釈したがる人だと思う。
最近だと、新宿タワマン殺人の件が思い出される。
若く綺麗なキャバ嬢に恋をした50代男性が、溺愛していた愛車まで売って1000万程を貢いだが彼女と結婚できないことに腹をたて、最終的に滅多刺しにして殺害してしまったこの事件。
ツイッターでは、なんとこの殺人を犯した男性への同情が多く寄せられ、女性は「殺されて当然」「自業自得」といったコメントがみられた。
私はこの事件の是非を問う気はない。
しかし何故こんなにも自己責任論者が溢れているのだろう?
それは“わたし”と“あなた”、個人と社会の間に深い溝ができて、分断が進んでいるからだと思う。
これはあなたの問題、あなたのせいで起こったこと。
だから私の問題ではないし、考えることも心を寄せることも必要なし。
そんな声が聞こえてくる。
そしてこんなことを言っている私の中にも、そんな“マッチョな自己責任論者”がいるように思えてならない。
心の問題に関わる人には、心という不可視なものへの敬意を含んだ想像力がなければならない。
臨床の現場では、「その人が『生きて在ること』への畏敬の念」みたいなものが必要な時があって、それがないと回復への歯車自体が動き出さないことがある。
「その人が『生きて在ること』への畏敬の念」
あなたは持っているだろうか。
私はおばあちゃんの介護を通じて初めてその人が『生きて在ること』、つまり私が『生きて在ること』について考えた。
おばあちゃんが病気になり、ベッド生活になり、一人じゃ排泄も食事もできなくなった時。
私は本当にびっくりしたのだ、こんなに何にもできなくなったばあちゃんが、ただ生きていることが、涙が出てくるくらいありがたいことに。
私はばあちゃんのうんちしたおむつを替えながら、言い方は悪いけれど“何も役に立たなくなった”ばあちゃんが、こんなにも生きているだけでありがたいことに驚いた。
きっと私自身、無自覚に生きている間は“誰かの役に立たなきゃ”とか、”社会や周りに何かを還元しなきゃ“みたいな強迫観念みたいなものがあったんだと思う。
だからこそ、その人が『生きて在る』だけでこんなにも価値があることを知らなかった。
そして、その驚きがあんまりにも確かなものだったので、ああ、自分も誰かにとって『生きて在る』だけで価値があるんだとストンと胸に落ちたのだった。
あなたが生きて在ること。
そこに畏敬の念が持てたなら、マッチョな自己責任論者に「それはおかしいんじゃない」と言える気がする。
「生きる気力」を削ぐ言葉が飛び交う中で、あなたとわたしの間に溝が深まる中で。
少しでも「生きる気力」が出る言葉を探っていきたい。
今の状況を悔しがりたいし、あなたと「生きる気力」が湧く言葉を交わし合いたい。
今年のベスト本になるんじゃないのか?というほど出会えてよかった本です。
是非。
Written By あかり
アラサー女