
禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論①
今回扱うのは禅の立場からの瞑想(ヴィパッサナー)批判です。これをヴィパッサナー実践の立場から更に批判的に見ていくわけですが、それがなぜ必要なのかということをお伝えしておきます。
禅、特に曹洞禅の只管打坐という立場とテーラワーダのヴィパッサナーの実践方法は比較されます。まぁ一般の人から見ればどちらも座ってやっているし、変わらないのですが、やってることは全然違う部分もあるし、同じ部分もあるように思います。ある意味、近いからこそ両方の狙いをちゃんと見定めて分けておかないと、実践の効果をうまく引き出せなくなってしまいます(もっともこういう考え方自体「ただ坐る」という立場からすれば余計な「はからい」なのですが)
それで私が要約しても良かったんですが、批判しやすいように都合よく書いていると思われてしまってもしょうがないので、テキストを探したんですね。そうしたらちょうどいいのがありました。ちょっと古いんですが、2012年秋発刊のサンガジャパンのvol.11に掲載された『瞑想と坐禅、そして私』という記事です。
おそらく、ヴィパッサナーの実践に禅の立場から最も鋭い批判を投げかけているのは安泰寺の元堂頭ネルケ無方さんです。ネルケさんはいわゆるゴエンカ式の10日間のヴィパッサナー瞑想リトリートを経験していますし、指導においても瞑想を経験をした上で坐禅に来た外国人や日本人とも関わりがあります。それらの人を見た上でかなり「妥当な」批判をしてくださっています。
非常に素晴らしい内容で全文引用したいくらいなのですが、流石に長いので要点を引用しつつ他は私がまとめる形で紹介します。一通り紹介し終わった後で批判を加えるという形にしたいと思います。
始まりはこんな感じです。
「考えているのは誰だ」
その疑問が浮かんできたのは小学生二、三年生のころでした。母親がガンで亡くなってから、ずっと生と死のことを考えていました。どうせ死ぬのに、何のために生きなければならないのか……、それが疑問でした。父親に聞いても、学校の先生に聞いても、誰も教えてくれません。しかし、どうしても知りたいという自分がいたのです。
他のご著書などでも詳細に話されていますが、ネルケさんは幼い頃にお母様を亡くされています。それをきっかけにある種、哲学的な問いに悩まされるようになります。それは初め「生と死」にまつわるものだったのが、やがてその「問い」を問う主体(私)へと興味が移っていきます。大事なところなので続きも引用します。
厳密に言えば、「知りたいという自分がいた」と言うより、「《知りたい》という思いがそこにあった」と言った方が正確なのかもしれません。思いや考えはたえず浮かんでいましたが、「その《持ち主》をいくら探してもつかめない」ということにやがて気づきました。
「《考えているのは誰だ》と考えているのは誰だ」
一回気になりだすと、疑問は次々に増えていくばかりでした。
「《『考えているのは誰だ』と考えているのは誰だ》と考えているのは……」
ネルケさんはこういった「私」という認識の主体について、ずっと考えていたそうです。彼の興味はこう言った自身の《内側》の問題であって、周りの世界への関心が極めて希薄だったといいます。しかし、高校の先生に誘われてしぶしぶ参加した坐禅で初めての経験をします。
足を組み、手を組み、背筋を伸ばして、ただ坐る……そこにいつもと違う自分がいたのです。いや、「違う自分がいた」というより、「違うものに気づいた」と言ったほうが正確なのかもしれません。
「息、している」
「心臓、動いている」
「雨、降っている……ぱらぱら」
それらの現実をいわば《内側から》眺めていたのではなく、生で体感していたのです。
この体験がネルケさんの坐禅体験の原点であり、基本になっています。今まで認識の主体である「私」を「思考」によって追い求めていたのが、坐禅によって「今」と「身体」に出逢ったのです。そのようにして出会った生の現実こそが(本当の)《自分》であることに気づいたのです。
このようなネルケさんの経験はまとめると以下のような図として表せます。

ネルケさんにとって坐禅というのは、哲学的な内省によって現実から遊離してしまった意識を「今」そして「身体」に引き戻してくれるような経験だったのです。そしてこのような修行の方向性は、仏教としてかなり真っ当なものです。
ただし、ここからネルケさんはこのような経験と不二一元論、そして原始仏教を比較していきます。私が批判を加えたいのは勿論、このネルケさんの原始仏教に対する理解についてですが、その批判の意味を明確にするためにも、まずネルケさんの経験についてまとめさせていただきました。
これからおそらく5回くらいに分けて説明していく形になります。
長いですがかなり本質的な話になったと思うので、どうぞお付き合いください。
ここまで読んでいただきありがとうございました。