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悟りに至る7つのステップ 番外編①
今回は実際に私がステップ7に上がった時の話をします。と言ってもそんなに大層なことはないために今まで書かずにいました。ただ何かの参考になるかもしれないと思い一応文字にしてみます。
それはいわゆる瞑想中に起こったわけではありません。その頃はかなりヴィパッサナーに習熟していて、特に座ったり特別なことをしなくても観察する意識状態に入れるようになっていました。普段のベースとなっていた集中も高かったんだと思います。
クリスマスの直前でした。家族で集まるので料理を仕込んでいたのです。ビーフシチューをかき混ぜながらその感覚を観察していると喜悦感が湧いてきました。
「どうしたんだろう。久しぶりだな」
この頃はあまり喜悦感は湧いてくることはなくて心は静かだったのです。でもその日は喜悦感がずっと続いていました。
鍋をかき混ぜるのをやめて少しリビングで休憩しているとおかしなことに気づきました。思考が全く生じないのです。当然観察状態に入れば思考は関係なくなるのですが、そこから出たら弱いですが思考は出ていたのです。それが全く出なくなっていた。しかもあえて何か考えてみようとするとその考えたことが煙のように消えていってしまうのです。
「なんなんだろうと、これは」
しかもあえて注意を保とうとしなくても観察意識が途切れることなく続いている。明らかに朝までとは様子が違っていました。しかも体に対する感覚も変わっている。喜悦感でふわふわしているせいもあったと思うのですが、体がまるで自分の体のように感じなくなっていました。これは非常に不思議な感覚です。自分の体だという感覚がないにもかかわらず指を動かしたり手を動かしたりすることができる。
これは例えるなら採血の時にゴムを巻くと腕が痺れた状態になりますよね。ゴムを外してもしばらくは痺れたままで、その時に腕を動かすとまるで自分の腕ではないような感覚に陥ります。それに非常に近いです。それが体全ての部位に対して起きている。とにかくこれはなんなのかわからないけれど、喜悦感もずっと続いているし、気にしなくても良いかなと思ったのです。
家族での食事を終えるまでは本当に久々とも言えるような楽しい時間でした。
しかし、徐々に喜悦感が消えるとなんだか怖くなってきたのです。
自分が自分でなくなってしまうような、自分の中身が急激に書き変わっていくようなそういう不思議な経験でした。それに私は必死に抵抗しました。
(どれだけの方に通じるかわかりませんがBボタンを連打してポケモンの進化をキャンセルするイメージです)
そしてそんな努力の甲斐があって?その流れは止まりました。
驚きました。
私はいつ死んでも良いと思っていたし、自分には本当に大切にしたいものなどもうないと思っていたのです。でも実際にそれらが根こそぎ消えていってしまうような感覚に襲われた時怖くて、怖くてたまらなかったのです。
今更ですが改めてエライ世界に足を踏み入れてしまったと思いました。そもそも私は別に悟りたいとかそんな理由で仏教の実践を始めたわけではありませんでした。生きるのが辛すぎてそれをどうにかしたかったのです。ですから生きられるのならば普通に生きたかったのです。しかし、もうそれは叶わないのだと知りました。
「自分はもう人間とは呼べないような存在になってしまった。しかももう後戻りはできない」
その時の自分にとってそれは絶望的な出来事のように思えました。しかしその感覚が徐々に馴染んでくるともうその状態に疑問を持つことも無くなりました。寧ろ以前よりも圧倒的に楽に暮らせるようになったのです。
そこから仕事を見つけて形としてはまた人間として生きていくことができるようになりました。
普段全然過去を思い出さないので忘れていたのですが、改めて思い出して書いてみると私人生結構波乱万丈なんですよね。その波瀾万丈の部分はあまり仏教とは関係ないのですが機会があればまた書いてみるかもしれません。
読んでいただきありがとうございました。